【光る君へ】源明子(藤原道長の妻)が藤原一族を恨む原因になった安和の変とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、東京都知事選の速報で休止になった。そこで、ドラマの前半部分で、注目された場面を取り上げて、詳しく解説することにしよう。取り上げるのは、源明子(藤原道長の妻)が藤原一族を恨むことになった安和の変である。
明子の父の高明は、醍醐天皇の第十皇子として生まれたが、延喜20年(920)に源姓を与えられ臣籍降下した。康保3年(966)、高明は右大臣に任じられ、翌年には左大臣へ順調に昇進した。
高明の妻は、藤原師輔(兼家の父)の娘だった。師輔の娘の安子が村上天皇の中宮だったこともあり、高明は中宮大夫を務めることになった。こうして高明は、村上天皇に急接近したのである。
高明は、娘を為平親王(村上天皇の第二皇子)の妻にすることに成功した。仮に、為平親王が天皇になることがあれば、高明の威勢が伸張するのはほぼ確実だった。しかし、高明の目論見は、見事に崩れ去った。
師輔と安子が相次いで亡くなり、村上天皇の次には守平親王(為平親王の弟)が新天皇(円融天皇)に選ばれた。このような事態になったものの、高明は為平親王の擁立を諦めなかったという。
安和2年(969)、守平親王(円融天皇)を廃し、為平親王を擁立しようという動きがあった。この動きを密告したのが、源満仲であり、ただちに謀叛に加わった人物が次々と捕らえられた。
捕らえられた人々の中には、高明の姿もあった。その結果、高明は謀叛の首謀者とされ、大宰権帥に左遷されたのである(安和の変)。その後、高明の代わりに左大臣に就任したのが、藤原師尹(師輔の弟)だった。
安和の変は、藤原氏による有力な一族の排斥事件といわれている。大河ドラマにおいて、明子は安和の変で父が左遷されたので、藤原一族に恨みを抱いたように描かれていた。
道長が明子を側室に迎えたのは、永延2年(988)のことである。その前年、源倫子が正室として、迎えられていた。実際のところ、明子が藤原一族を恨んでいたか否かは史料で裏付けられず不明である。
しかし、倫子の産んだ男子が摂政や関白に就任し、娘が天皇に入内する一方で、明子の産んだ子はあまり厚遇されなかった(頼宗は右大臣に昇進)。それは、安和の変で父の高明が失脚したことも関係していたのだろうか。