【深掘り「鎌倉殿の13人」】承久の乱直前。御家人たちは、なぜ北条政子の大演説に心酔したのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎え、北条政子の大演説によって、ついに幕府は打倒朝廷の兵を挙げた。政子の大演説について、詳しく掘り下げてみよう。
源実朝が公暁に暗殺されて以降、幕府の動揺は隠せず、次期将軍問題が喫緊の課題となった。幕府は朝廷から親王を将軍として招こうとしたが、それは失敗した。また、所領の問題をめぐり、後鳥羽上皇と北条義時・政子姉弟の関係も徐々に悪化していった。
承久3年(1221)5月15日、ついに後鳥羽は義時追討の宣旨を下した。宣旨の内容を見る限り、後鳥羽は幕府を打倒しようとしたのではなく、秩序を乱す義時と政子さえ討てば、それで事足りると考えていたように思える。あくまで幕府を温存するつもりだった。
後鳥羽による追討の宣旨が発せられたことが鎌倉に伝わったのは、4日後の5月19日だった。京都守護の伊賀光季が飛脚を使って、通常よりも早く情報を届けたのである。その直後、幕府は光季が朝廷の軍勢に攻められ、自害したことを知った。
後鳥羽の義時追討の命令は、東国の御家人にも届いていた。三浦氏のもとにももたらされ、「義時を討てば恩賞は思いのまま」と書かれていた。三浦義村はただちに義時のもとを訪れ、幕府への忠節を誓ったのである。東国の御家人は、大いに動揺していた。
ここで登場したのが政子であり、御家人らを前にして「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と演説した。
政子の言葉は、頼朝時代を知る御家人の心情に強く響くものだった。演説を聞いた者は皆涙を流して、幕府に対する強い忠節を誓ったという。その後、義時らを中心にして軍議が開かれた。
軍議では箱根・足柄に出陣して、防御態勢を築くべきだという意見が優勢だった。ところが、大江広元が京都に兵を送るべきだと発言すると、政子は広元の意見を採用した。政子の演説で御家人は一つになったので、この勢いでもって一気呵成に攻めあがることにしたのである。
政子の演説は、頼朝が東国に築いた政権の維持、頼朝の御家人に対する厚恩を訴えたもので、御家人の心に響いた。実に効果的な演説だったのである。