奥州仕置。和賀義忠と南部信直の運命を大きく変えた和賀・稗貫一揆とは?
庶民が立ち上がって、ときの政権が倒れることは決して珍しくない。豊臣政権下で勃発した和賀・稗貫一揆は、和賀義忠と南部信直の運命を大きく変えたので、紹介することにしよう。
天正18年(1590)の小田原征伐後、豊臣秀吉は小田原に参陣しなかった結城義親、石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠(家法・重綱)らを改易した。
稗貫氏が追放されたのち、居城の花巻城(岩手県花巻市)には浅野長政が入城した。秀吉が送り込んだ奥州仕置軍は諸将を従え、平泉周辺まで侵攻して和賀氏らの勢力を制圧した。長政の家臣が代官として検地などを行うと、奥州仕置軍は引き上げたのえある。
所領を没収された大崎氏、葛西氏らの旧臣や農民たちは、検地を強行され強い不満を抱いた。同年10月、溜まりに溜まった不満がとうとう爆発し、彼らは一揆を結んで各地で挙兵したのである。
一揆勢は、秀吉から派遣された木村吉清らの武将を攻撃すると、和賀郡・稗貫郡においても、一揆勢の動きに呼応して和賀義忠、稗貫広忠らが蜂起した。
同年10月23日、一揆勢は二子城(岩手県北上市)の後藤半七(浅野長政の代官)を攻撃し、和賀氏の旧領を奪回すると、たちまち花巻城を取り囲んだ。花巻城を任された浅野重吉の軍勢は乏しかったが、よく攻撃に耐えたので落城を免れた。
秀吉方の南部信直は軍勢を引き連れ、花巻城へ急行した。信直は重吉らを救出すると、居城の三戸城(青森県三戸郡三戸町)に撤退したのである。戦後、花巻城や稗貫氏の旧領も一揆勢の手に渡り、秀吉が派遣した郡代、代官らは、旧領主の軍勢に追い出された。
翌天正19年(1591)、秀吉は一揆勢の討伐を行うべく、奥州再仕置軍を編成した。総大将の豊臣秀次が約3万の兵を率い、徳川家康以下、東北の諸大名がこれに従った。一揆勢は奥州再仕置軍に必死の抵抗を試みたが、ついに制圧されたのえある。
一揆勢を率いた義忠は逃走したものの、途中で土民に殺害されたという。その後、和賀、稗貫の両郡は、信直に与えられたのである。まさしく和賀氏と南部氏は明暗を分けたのである。