聖書とバッハの謎に迫る道標となったチューバの響き[ライヴ評]
shezooが2021年2月に上演した〈マタイ受難曲2021〉については、その構想の壮大さを少しでも解き明かしたいという気持ちから、上演レポートにとどまらず、全出演者と主要スタッフへのインタヴューを試み、"証言"としてこの場(Yahoo!ニュース個人の富澤えいち担当ページ)にて記事を公開してきた。
実はその際に、企画の仮タイトルとして“クオ・ヴァディス”という言葉を掲げ、インタヴューでもその言葉に関連した内容の問いを立てていた。
まとめの段階になって、なじみの薄い言葉であり、誤解や混乱を招かないようにと使用しないことにしたので、前述の各記事にはまったく反映されていない。
“クオ・ヴァディス(QuoVadis)”とは、ラテン語で「どこへ行くのか?」を意味する言葉だ。
新約聖書の『ヨハネによる福音書』のなかで、ペトロが最後の晩餐のときにイエスに対して投げかけた問いが、この言葉だった。
このエピソードをもとに映画も製作されていて(マーヴィン・ルロイ監督、1957年製作・公開、日本公開は1953年)、たまたま2020年の暮れに衛星放送でこの映画を観ていたら、〈マタイ受難曲2021〉と“クオ・ヴァディス”という言葉が頭のなかで結びついてしまっていた、というわけなのだ。
2021→2023?
その〈マタイ受難曲2021〉が〈マタイ受難曲2023〉として“再演”されたのは、2023年1月7日のことだった。
マタイ受難曲2023 – 神と嘘 –
公演日:2023年1月7日
会場:Hakuju Hall
出演:石川真奈美(歌)、松本泰子(歌)、行川さをり(歌)、Noriko Suzuki(歌)、西田夏奈子(エヴァンゲリスト・語り)、千賀由紀子(エヴァンゲリスト・語り)、黒木佳奈(エヴァンゲリスト・語り)、shezoo(指揮・ピアノ)、西田けんたろう(ヴァイオリン)、北沢直子(フルート)、寺前浩之(バンドリン)、土井徳浩(クラリネット)、田中邦和(サックス)、佐藤桃(チューバ)、木村秀子(キーボード)、藤野由佳(アコーディオン)、酒井康志(ボーカロイド)
企画・編曲・音楽監督:shezoo
脚本:shezoo
演出:田丸一宏
ダブルクォーテーション付きで“再演”なんて、ちょっと意味ありげに表記したのには、〈マタイ受難曲2021〉と同じとは言えない箇所がいくつもあり、“新作”とは言えないけれど……、という含みをもたせなければ語れないコンサートになっていたから、という理由による。
メンバーが同じである(エヴァンゲリストの黒木佳奈とアコーディオンの藤野由佳が新規参加、フルートの中瀬香寿子に代わって北沢直子)ということが再演の最も強力な後押しになってはいるものの、いわゆる“録り直し”を意味する“別テイク”ともニュアンスが異なる内容になっていたので、そのあたりをまず押さえておきたい。
〈マタイ受難曲2023〉の上演は〈マタイ受難曲2021〉では叶わなかった全曲演奏を目標とした企画だったと言っても過言ではない。
〈マタイ受難曲2021〉はコロナ禍での開催ということで、入場人員のみならず終演時間にも制約があり、これによってプログラムは重大な影響を受けることになった。要するに、リハーサルを重ねて準備してきた演奏曲のすべてを予定どおり組むことができず、数曲を直前のゲネプロの時点でカットするという決断を強いられていたのだった。
バッハによるオリジナルの〈マタイ受難曲〉は二部構成で、第一部は29曲、第二部は39曲の計68曲。一般的に全編演奏のコンサートは80分と100分の計3時間が標準とされ、ボクが予習をするために参考としたカール・リヒター指揮の1958年版〈マタイ受難曲〉も3時間超となっている。
shezooがバッハの〈マタイ受難曲〉をカヴァーする意図で企画を立ち上げたのではないことは、“取り説”や“証言”でも明らかにしてきたつもりだが、いわゆる“通し”で全編を上演することの意味は、〈マタイ受難曲2021〉と〈マタイ受難曲〉を並べたからこそ浮き上がるものがあると(企画したshezooが)考えたからこそ生まれたことを踏まえれば、“完全版”の再チャレンジは必須だったととらえるべきだろう。
〈マタイ受難曲2023〉インプレッション
さて、1月7日に東京・富ヶ谷のHakuju Hall で挙行された〈マタイ受難曲2023〉の感想だが、まずなによりも、国内屈指の音響を誇るクラシック音楽のためのホールでの上演ということで、“音に包まれる”という感覚を味わいながらバッハの作品に没入できたことは、得難い体験となった。
その意味で、作曲者のバッハはもちろん、再演の数々も“教会”という音響空間を意識していたであろうことを考えると、今回の選択は“完全版”にふさわしい設定になったと言える。
その効果が最も現われていたのはチューバで、通奏低音がこの曲に与える意味を改めて意識させてくれた。また、新たに加わったアコーディオンがもたらしてくれたパイプオルガンを想起させる響きも、この曲の荘厳さを表現する新たな手法として機能していた。
エヴァンゲリストによる“物語”は大幅に手が加えられ、〈マタイ受難曲2021〉のときの“衝撃”に比べると穏やかになっていたものの、それは“物語”と音楽性の乖離が少なくなった、すなわち〈マタイ受難曲〉が2023年版として熟成していたことを示していると言えるだろう。
惜しむらくは、“物語”が溶け込むことで音楽劇としての作品性が高まったため、照明などによる演劇的演出がもっと欲しくなってしまったことだろうか。
クラシック音楽ホールとしての制約やオトナの事情で“ないものねだり”であることを承知して書いているわけだが、そうした期待感を抱かせる内容であったからと、許していただきたい。
momo sato comme un chat
〈マタイ受難曲2023〉の音響的なチューバの効果について触れたところで、3月18日に東京・新大久保のスペースDoで開催された佐藤桃の初リサイタルを思い出している。
momo sato comme un chat
公演日:2023年03月18日
会場:スペースDo(ドゥ)管楽器専門店ダク地下
出演:佐藤 桃(チューバ)、shezoo(作曲、ピアノ)、高橋 美千子(ソプラノ)
このリサイタルでは、チューバという重低音楽器の魅力をさらに掘り下げてくれる演目が並び、心地良い響きに身を任せる至福の時を過ごすことができた。
金管楽器のソロ・リサイタルと言うと、(日ごろは縁の下の力もち的な)チューバが目立つ構成やその技巧(のスゴさ)をわかりやすく伝えようとする演出が施されがちだと思うのだけれど、エルガーやシューマンに交じって現代作曲家のクーツィールや委嘱・初演作品を3曲取り上げるという意欲的な、チューバという楽器を全方位的に捉えたプログラムになっていた。
当日はshezoo がピアノ伴奏を務め、〈マタイ受難曲2023〉とは逆位相とも言える配置で興味深かったのだけれど、ともすれば歌(アリアやコーラス)やエヴァンゲリストの語りが注目されがちな〈マタイ受難曲2023〉において、そのサウンドの最下部での革新的なひらめきがあったからこそカタチになりえた作品だったのかもしれないと、「どこへ行くのか?」と問いかける間もなく先へ先へと進んでしまう shezooの“創作の扉”の内側を垣間見たような気がしたのだが……。