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明治天皇の6回の大巡幸は、「海の日」のきっかけとなり、日本初の船舶に対する気象無線通報が行われた

饒村曜気象予報士
お召し艦・扶桑のイラスト

明治天皇の巡幸と「海の日」

 明治天皇は、明治のはじめの頃には全国を巡幸でまわり、江戸幕府に変わる天皇は歴史的、民族的に支配の正当性を持つ、仁恵深い君徳を備えた存在であることをアピールしています。

 巡幸のうち、6大巡幸とよばれるのは、次の6つです。

1回目:明治5年(1872年)5月23日~7月12日の近畿・中国・九州地方

2回目:明治9年(1876年)6月2日~7月21日の東北地方(函館を含む)

3回目:明治11年(1878年)8月30日~11月9日の北陸・東海道地方

4回目:明治13年(1880年)6月16日~7月23日の中央道

5回目:明治14年(1881年)7月30日~10月11日の東北・北海道地方

6回目:明治18年(1885年)7月26日~8月12日の山陽道地方

 このうち、2回目の巡幸は、明治維新のときに新政府に抵抗していた奥羽諸藩をめぐる巡幸で、国内の安定と言う意味で、待望されていました。

 明治天皇は日常的にも軍事的にも重要であった馬事に関心を持ち、盛岡八幡宮など各地で産馬をご覧になっています(写真1)。

写真1 初秋の盛岡・明治天皇像 行啓天覧記念碑
写真1 初秋の盛岡・明治天皇像 行啓天覧記念碑写真:イメージマート

 そして、2回目の巡幸の帰途、「明治丸」に乗船され、青森から函館を経由して横浜港に無事帰着しています。

 このとき、「明治丸」が横浜港に到着した明治9年(1876年)7月20日が「海の日」のきっかけとなったというのは、有名な話です。

 このときの「明治丸」は、日本最初の鉄製汽船で灯台巡視船として使われていました。

 日本近海の灯台の設置・維持は、江戸幕府から引き継いだ諸外国との重要な約束であり、当時、日本が持っている一番良い船は灯台巡視船でした。

 「海の記念日」が決定したのは、昭和16年(1940年)6月5日の次官会議で、提唱したのは、大阪商船(現在の商船三井)出身の貴族院議員で、逓信大臣と鉄道大臣を兼ねていた村田省蔵です。

 その後、平成8年(1996年)には「海の日(海の恩恵に感謝するとともに海洋国日本の繁栄を願う日)」として7月20日が祝日となります。

 しかし、平成15年(2003年)に祝日法のハッピーマンデー制度により、7月の第3日曜日になり、明治天皇の巡幸との関係は薄れています。

 ただ、海の日が来ると、時折、明治天皇の巡幸の話が出てきますが、5回目の巡幸で日本初の船舶に対する気象無線通報を行ったという話は知られていません。

船舶への気象無線通報

 明治7年(1874年)7月に海軍の水路局に作られた観象台では、天気新報の実施をたびたび上申していますが、明治13年8月の第7回の上申が裁可されています。

 「該新報設置方ヲ兵庫長崎両所へ省達アリ是ニ於テ之のカ実施ニ関シ漸次協議ヲ開始スルニ至レリ(大正5年(1916年)の水路部沿革史より)。」

 つまり、観象台や兵庫、長崎などの観測所から天候異変があったときは、その前後の状況を詳しく記事にして電報で知らせるというものが、天気新報です。

 この裁可の翌年、明治14年(1881年)の5回目の北日本巡幸の時には、8月15日から19日にかけて、1日2回、観象台から東京と長崎の天気がお召し艦「扶桑」に向けて、電報が発信されています。

 これが、日本で最初の船に対する気象無線通報と言われています。

 「扶桑」は、明治11年(1878年)にイギリスで作られた、日本初の甲鉄で覆われた船で、日本初の戦艦(長さ67メートル、幅15メートル、排水量3777トン)です。

 明治14年(1881年)においては、日本海軍最強の艦でした(タイトル画像参照)。

 明治14年3月にお召し艦「迅鯨(長さ76メートル、幅10メートル、排水量1450トン)」が完成していますが、故障修理が長びき、「迅鯨」はお召し予備艦という扱いで巡幸に随行しました。

 北海道開拓に強い期待をお持ちになっていた明治天皇は、2回目の巡幸の時に函館に立ち寄られていますが、青森から「明治丸」に乗船されて帰郷する途中での函館寄港でした。

 しかも、当初は上陸せずに船の上から陸上を眺める予定でした。

 間際になって急きょ上陸することになったので、住民が奉迎の準備に追われ、開拓等に支障する等のことはありませんでした。

 しかし、5回目の巡幸は海を越えて北海道にわたり、小樽、札幌など北海道をご視察後、海を渡って東北地方に入り、青森県弘前から能代、秋田、鶴岡、酒田、山形、米沢、福島と、東北日本海側を巡るタイトなスケジュールの巡幸です。

 しかも、2回目の巡幸と違い、5回目の巡幸は「烈風が吹いて波が非常に高くなることがある季節(台風シーズン)」と言い伝えられてきた8月の渡海であることから、海軍観象台では、一層の注意が行われ、長崎や大阪の天候を調べて函館へ電信で報告させていました。

 5回目の巡幸の海軍は、仁禮景範(にれ かげのり)海軍少将のもと、「扶桑」、「迅鯨」、「金剛」、「日進」が随行し、明治天皇は、行きの青森から函館は「扶桑」、帰りの函館から青森は「迅鯨」にご乗船になられました。

 その後、海軍水路局では、同年9月から暴風の前兆がある時には水路局から客船艇等に通知するようにしています。

 気象庁の前身である東京気象台が天気図を用いた暴風警報を発表するのが、この1年半後の明治16年(1883年)5月です。

 気象の状況を船舶に無線で伝えようとする努力は、天気図が作られる前から始まっていたのです。

明治14年(1881年)8月の仙台付近の大雨

 海軍観象台からお召し艦「扶桑」に気象無線通報の電報が発信されたが明治14年(1881年)8月15日から19日というと、明治天皇が仙台から盛岡を行幸中でした。

8月12日 岩沼発 仙台着

8月13日 仙台滞在(有栖川宮熾仁親王をご名代として野蒜築港工事を巡覧)

8月14日 仙台発 古川着

8月15日 古川発 築館着(「扶桑」への気象無線通報開始)

8月16日 築館発 磐井着(有栖川宮熾仁親王が野蒜築港工事の状況を具奏)

8月17日 磐井発 水沢着

8月18日 水沢発 花巻着

8月19日 花巻発 盛岡着(「扶桑」への気象無線通報終了)

 明治天皇が仙台に滞在した8月13日は、大雨であったとの記録が残っています。

 8月14日の朝、宮城県令から川が氾濫していることから日程の延期が奏上されましたが、明治天皇は「前路期を刻して準備既に成れり 一日を緩うせば百事齟齬せん 其の民を煩はすや大なり」と仰せになり、河川氾濫相次いだ地域を馬から船に乗り換えるなど、苦労しながら盛岡へ進んでいます。

 また、8月13日に左大臣の有栖川宮熾仁(たるひと)親王をご名代として野蒜築港工事を巡覧していますが、この大雨がお召し艦「扶桑」への気象無線通報開始のきっかけになったからかもしれません。

野蒜港と野蒜測候所

 明治天皇が、有栖川親王から下記のような野蒜築港の進捗状況の具奏を受けたのは、8月16日で、場所は磐井(現在の一関市)でした。

 防波堤を築き北上川の疎水を分かちて幅18間余、流域3里30町余の運河を開くにあたり明治11年2月工を起し今や過半竣工するに至れり…。

引用:明治天皇紀(昭和46年(1971年))、吉川弘文館。

 有栖川宮熾仁親王のご視察の約1か月後の9月20日、野蒜港の突堤と繋船場(けいせんば)は、干潮時でも6尺(1.8メートル)余の水深を保つことができたとして、一般の通船が許可されています。

 つまり、部分開港しています。

 日本初の近代港建設である野蒜港構築計画は、戦国時代の最後のぺージを飾り、北上・阿武隈両河川の舟運を発達させた伊達政宗の考えた案を発展させたものと言われています。

 つまり、阿武隈川河口の荒浜から松島湾に通ずる延長36キロの貞山堀(伊達政宗の異名・貞山公に由来する)の大幅な改善事業や、鳴瀬川河口の野蒜に近代的な港を作り、ここを拠点として、北上川河口の石巻を結ぶ延長12キロの北上運河と、松島湾を結ぶ延長4キロの東名運河(俗称:野蒜運河)を作るという計画です(図)。

図 野蒜村の予定防波堤
図 野蒜村の予定防波堤

 野蒜港構築計画は、大久保内務卿の命を受けたC.V.バンドールン等が野蒜が近代港にふさわしいと報告したことから始まっています。

 明治14年(1881年)年には気象観測のために野蒜測候所が作られましたが、当時は、測候所は国の直轄が東京、長崎、新潟、野蒜、北海道開拓使設立が函館、札幌、根室、県設立が広島、和歌山、京都と合わせても10か所にすぎませんでした。

 かなり早い段階での測候所設置であり、しかも国の直轄ということで、明治政府が野蒜港に力をいれていたことがわかります。

 しかし、明治16年(1883)10月8日の台風被害(野蒜で最大風速26.8メートルを観測)や、明治17(1884)年8月26日の台風被害(野蒜で最大風速風23.3メートル)など、自然災害が相次いだことから野蒜港構築計画そのものは失敗に帰し、一時にぎわいをみせた野蒜も、またもとの村にもどっています(写真2)。

写真2 港口の風景 (左)と野蒜港跡の碑(右)
写真2 港口の風景 (左)と野蒜港跡の碑(右)

 野蒜測候所も明治20年(1887年)8月31日をもって廃止となり、それ以降の気象観測は宮城県立の石巻測候所へ引き継がれています。

 しかし、野蒜港の失敗は、坂井港(福井県の三国港)、長崎港、若松港、函館港、新潟、名古屋港と続々と建設され、近代日本を支える屋台骨となった多くの港の建設・改良の教訓として生かされています。

タイトル画像の出典:筆者作成。

図、写真2の出典:饒村曜(平成5年(1993年))、続・台風物語、日本気象協会。

写真1の出典:イメージマート。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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