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豊臣秀吉は、本能寺の変が起こることを知っていたのか。それは真っ赤なウソ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 天正10年(1582)6月2日は本能寺の変が勃発したが、豊臣秀吉は変が起こることを知っていた、あるいは黒幕だったという説がある。それが事実なのか検証しよう。

 本能寺の変が勃発したとき、豊臣(当時は羽柴)秀吉は備中高松城(岡山市北区)を水攻めにしていた。しかし、秀吉は「信長死す」の一報を耳にすると、すぐに毛利と和睦を結び、「中国大返し」(備中高松城から山崎の間)で上洛した。光秀が討たれたのは6月13日である。

 秀吉がわずか11日で上洛を果たし、一気呵成に光秀を討ったのは、本能寺の変が起こることを知っていたからだという説がまことしやかに流れた。あるいは、結果から考えて、秀吉が一番得をしたのだから、秀吉が黒幕だったとの説すらある。

 実は、秀吉が事前に本能寺の変が起こることを知っていたという史料は、探してみたが存在しない。秀吉が「本能寺の変が起こることを知っていた」、「本能寺の変の黒幕だった」というのは、単なる興味本位の憶測に過ぎない。

 秀吉による「中国大返し」は、これまで二次史料(後世の史料)によって論じられてきたが、その行程(特に備中高松城から姫路の間)が誤りであることが判明した。一次史料(同時代史料)で検討した結果、さほど無理ではない行程であることが論証された。

 近年では「中国大返し」で船を利用したとか、「御座所システム」(兵庫城などに設置された)が有効に機能したなどの説が提起されたが、その事実を裏付ける史料は確認できないのが現状だ。

 では、黒幕説はどうなのか。こちらは、はっきりいえば検討にすら値しない代物である。史料的な根拠がないばかりか、興味本位の憶測のオンパレードである。秀吉は天正13年(1585)に関白に就任するが、それを予定調和的に論じているに過ぎない。

 本能寺の変は「日本史上最大のミステリー」なので、これまでプロ・アマ問わず、多くの人が論じてきた。もっとも重要なことは、信頼できる一次史料を用い、そこから何が言えるのかをベースにすることだ。おもしろければ、何でもいいという問題ではない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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