織田信長の配下にあった、生年あるいは没年不詳の武将3人
今の時代になっても出生や死亡を届けないと、生没年がわからないことがある。織田信長には多数の家臣がいたが、中には生年あるいは没年が不明な武将もいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎小鴨元清(生年不詳)
小鴨元清は南条宗勝の次男で、岩倉城(鳥取県倉吉市)主だった。もともとは毛利氏に従っていたが、のちに信長の配下に加わった。天正8年(1580)にはじまる鳥取城の攻防では、羽柴(豊臣)秀吉から岩倉城などへの援軍が来なかったので苦戦を強いられた。
天正10年(1582)の本能寺の変後、元清は秀吉に従った。元清は病弱だった兄の元続に代わって家督を継ぎ、秀吉の命に従って各地を転戦した。関ヶ原合戦後、加藤清正の家臣となり、慶長19年(1614)2月13日に亡くなったという(10月23日説もある)。
◎島田秀満(生没年不詳)
島田秀満は奉行衆の1人として、天文年間から織田信長に仕えていた。紛争解決のほか、使者として役割も果たしていたので、それなりの地位にあったと考えられる。永禄11年(1568)に信長が上洛すると、秀満は村井貞勝とともに京都支配を任された。
信長が足利義昭と対立した際は、秀満らが義昭に派遣された。天正元年(1573)7月に義昭が追放されると、貞勝が京都所司代に就任し、秀満の姿は見られなくなる。天正3年(1575)4月に『兼見卿記』に秀満が登場したのが最後なので、このとき以降に亡くなったのだろう。
◎武井夕庵(生没年不詳)
武井夕庵は、美濃土岐氏、斎藤氏の右筆だったが、斎藤氏が美濃から放逐されて以降、信長に仕えることになった。右筆としての役割のほか、使者として諸大名との交渉に当たるなど、重要な役割を果たした。茶人としても知られた文化人でもあった。
天正8年(1580)、勅命講和の使者として、佐久間信盛とともに大坂本願寺に派遣された。2年後に本能寺の変が勃発したが、夕庵は巻き込まれなかった。天正13年(1585)を最後にして史料上から姿を消すので(『言継卿記』)、これ以降に亡くなったのだろう。