BRICS銀行の創設がもつ意味:IMF/世銀はなぜ嫌われるか
7月15日、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5ヵ国(BRICS)が「新開発銀行」の設立に合意しました。この合意は、第二次世界大戦後の米国主導の国際金融レジームに対するだけでなく、冷戦後の国際秩序そのものに対する一つの挑戦といえるでしょう。
新開発銀行のアウトライン
新開発銀行は主に、開発途上国におけるインフラ整備のための融資を目的にしており、本部は上海に置かれます。名称を「BRICS銀行」とせずに「新開発銀行」としたのは、これに続く他の新興国がいずれ参入することを見越したものといわれます。
新開発銀行の資本金は500億ドルで、BRICS5ヵ国が平等に分担します。多くの識者が指摘するように、経済力に差があるにもかかわらず5ヵ国が一律の金額を拠出するのは、圧倒的な経済力をもつ中国のペースになることに他のメンバー、なかでもブラジルやインドが難色を示したためです。拠出金額を一律にすることで、少なくとも公式には、5ヵ国間の発言力が対等なものになります。
一方、今後の参入が見込まれるチリ、インドネシア、ナイジェリアなどの他の新興国との間には、発言力に明確な格差が設けられています。資本金は今後、1,000億ドルまで増やす予定になっていますが、その場合でもBRICSの出資比率は55パーセントを下回らないこととなっています。いわばBRICSは国連を創設した、言い換えれば第二次世界大戦の主要戦勝国である五大国が、安全保障理事会の常任理事国となった手法を踏襲しているといえるでしょう。
資本金が全員一律である一方、緊急時に対応するための外貨準備基金の総額は1,000億ドルで、このうち世界最大の外貨準備を保有する中国は410億ドルと最も多く拠出します。ブラジル、インド、ロシアは180億ドル、南アフリカは50億ドルと定められました。この配分は、2013年の各国のGDP(中国は約9兆2,400億ドル、ブラジルは2兆2,400億ドル、ロシアは2兆900億ドル、インドは1兆8,000億ドル、南アは3,500億ドル、以上世界銀行データベース)に照らせば、概ね妥当なものといえます。
戦後の国際金融レジーム
新開発銀行の重要性を考える際、まず戦後の国際金融レジームを確認する必要があります。
1944年7月、連合国44ヵ国の代表が米国ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズに集まり、第二次世界大戦後の世界金融に関する協議を行いました。ここでの合意のうち、金-ドル兌換制に関しては1971年のニクソン・ショックで事実上崩壊しましたが、やはりこの会議で設立が決定された国際通貨基金(IMF)と世界銀行(正式名称は国際復興開発銀行)は、現在に至るまで国際金融機関として機能し続けてきました。両機関は加盟国政府に対する融資を目的としており、例えば日本も東海道新幹線を敷設する際、世界銀行から融資を受けました。IMFが短期融資、世銀が長期融資という役割分担はありますが、特に1980年代以降は緊密な連携が目立つようになっています。
1970年代、第四次中東戦争(1973)とイラン・イスラーム革命(1979)に端を発する二度の石油危機により、日本など先進国も不況に陥りましたが、多くの開発途上国はそれ以上の負のインパクトを受けました。なかでもラテンアメリカ諸国とアフリカ諸国は、これをきっかけに巨額の対外債務を抱える累積債務危機に陥り、これに対する対応としてIMF、世銀が「構造調整計画」を実施することとなったのです。
構造調整計画は一言でいえば、新自由主義的な市場経済メカニズムの導入を通じて借り入れ国の経済成長と債務返済を目指したものでした。融資対象となった各国は、IMF/世銀からの融資と引き換えに、緊縮財政や貿易自由化といった「小さな政府」と規制緩和を求められました。債務を抱え込んだ責任はあるにせよ、少なくともこれらの諸国が事実上、外部から半ば強制的に経済改革を強いられたことは確かです。
そして、この頃から言われるようになった言葉に「ワシントン・コンセンサス」があります。IMF、世銀の双方の本部は米国の首都ワシントンにあります。そして、米国はIMF/世銀に対する最大の出資国。つまり、この三者の合意に基づいて、開発途上国で市場経済化が推し進められたのです。
これを可能にしたのは、IMF/世銀で採用されている意思決定方式「加重表決制」にありました。IMF/世銀の最高意思決定機関は、それぞれ総会と呼ばれますが、ここでの投票は、加盟国の一国一票ではなく、出資額に比例して投票権が与えられるシステムになっています。1980年代は、米英仏独日の西側5大国だけで、IMF/世銀の資金の50パーセント以上を出資していました。なかでも米国の意向が強く反映されたことは、言うまでもありません。
国際金融をめぐる南北間の政治対立
ただし、これは「金融」そのものが政治的な争点になったことを意味していました。
IMFと世銀は自らを「非政治的機関」と呼びます。つまり、政治には口を出さず、金融あるいは経済だけを担当するという自己認識です。しかし、IMF/世銀は借り入れ国に経済政策や制度の改革を求め、それらが実行されなければ融資を引き揚げることも珍しくありません。さらに、特に冷戦終結後はスポンサーである西側諸国の意向を反映して、人権保護や民主化なども暗黙の融資条件になりました。
現代政治学の大御所の一人であるロバート・ダールは、「AがBに通常であればBがしないことをさせた場合、AはBに対して権力をもつ」と規定しました【R.ダール(1981)『ポリアーキー』高畠通敏・前田脩訳、三一書房】。これに従えば、その自己認識はさておき、IMF/世銀が西側先進国の先兵として、累積債務危機以降のラテンアメリカ、アフリカ諸国に権力をふるってきたといえるでしょう。
一方、IMFや世銀、さらに西側当局者にそれなりの善意や使命感があっただろうことは否定できません。つまり、「半ば無理やりにでも借り入れ国の市場経済化を推し進めることは正しい。なぜなら、それによって彼らは経済成長と財政均衡を実現できるのだから」という思考です。ただし、結果によって手段を正当化する思考は、想定されていた結果が出なければ、全く正当化できなくなります。
図1は、地域別の一人当たりGDPを示しています。ここからは、1980年代から90年代半ばにかけて、構造調整計画の主な対象となったラテンアメリカとアフリカにおける平均所得の伸び率が、この時期に構造調整計画と無縁の国が多かった東アジア、南アジアにおけるそれより低かったことが確認できます。
さらに、図2はGNI(国民総所得)に占める債務残高の比率を示しています。ここからは、構造調整計画が導入されていた時期、特にアフリカで債務返済が進まなかったことが見て取れます。「合理的個人と市場システムの普遍性」をナイーブなまでに信仰し、相手国の状況をほとんど考慮に入れない設計図を手渡して、その実施を求めても、期待されたほどの成果は出なかったのです。
さらに、IMF/世銀という国際機関を通じて、いわば中立性を前面に押し出して経済改革を求めながら、それと並行して西側諸国が自らの利益を確保することも珍しくありませんでした。例えば、1997年に南米のボリビアでは、水道事業が民営化されました。これはIMF/世銀の「規制緩和」要求とセットになった融資が直接的な要因でした。その結果、民営化された水道事業は、唯一の入札者であった、米国ベクテル社の現地子会社アグアス・デル・トゥナリ社に買収されました。「民営化されれば、効率的なサービスが提供される」という信条がそこにあったことまでは否定しませんが、しかし水道事業を民間企業が担うことは、「例え絶対に必要なものであっても、採算が合わなければ提供しない」ことをも意味します。実際、ボリビアでは民営化の直後、「従来の水道料金では採算が合わない」という理由で水道料金が2~3倍に引き上げられ、低所得者が水道にアクセスできない状況が続発し、暴動にまで発展しました【佐久間智子(2001)「経済のグローバル化と水・食料」、勝俣 誠編『グローバル化と人間の安全保障』、日本経済新聞社】。
ボリビアの水道の事例は、あくまで一つの事例にすぎません。「構造調整計画」により、事実上不可能な水準にまで債務が膨れ上がる国が続出し、そのしわ寄せが貧困層に行く状況のなか、IMF/世銀は1996年に貸し付けた融資を段階的に放棄することを決定。それ以降、IMF/世銀だけでなく、西側先進国は「貧困削減」を国際協力のモットーにしてきました。
しかし、その一方で現在でも、多くの開発途上国では水道をはじめとするインフラが民営化され、規制緩和が求められています。IMF/世銀の融資はその端緒となるもので、それと連動して西側先進国企業が利益をあげる状況が、多くの開発途上国では確認されています。これに鑑みれば、多くの開発途上国でIMF/世銀、あるいは戦後の国際金融レジームそのものへの反感が培われてきたとしても、不思議ではありません。
経済的な地殻変動の余波
一方、新興国の台頭による世界の経済的な地殻変動は、着実に「ワシントン・コンセンサス」の牙城にも及び始めていましたが、それが直接的に発火する契機になったのは、2008年からの世界金融危機でした。投機性の高い投資が連鎖反応的に不良資産となるなか、ヨーロッパでは2009年秋にギリシャ債務問題が発覚。この際、債務危機に陥ったギリシャ政府に対して、「最後の貸し手」として「財政改革とセットになった融資」を提案したのはIMFでした。いわば、1980~90年代に開発途上国に求めていた「痛みをともなう改革を前提とする融資」を提案したわけで、これによって先進国の一翼として構造調整計画を支えたヨーロッパは、ブーメランのようにその「痛み」を感じることになりました。
この背景のもと、IMFの資金基盤強化は、国際関係の流動化を象徴する問題として浮上しました。2012年4月にはG20財務相・中央銀行総裁会議で、IMFの資金基盤を4,300億ドル以上強化する必要性が確認されました。その際に注目され、また期待もされたのは、新興国でした。つまり、停滞する先進国ではなく、新興国なかでもBRICSに出資額を増やしてもらうという考え方で、これに基づいて図3で示すように、出資枠の変更が検討されたのです。
これに関して、BRICS側は資金拠出の前提として発言力の強化を求めました。これに対して、EUは理事会にもつ8議席のうち2議席を返上する意思を表明するなど柔軟な姿勢を示しましたが、米国議会がこれを批准しなかったため、改革は行き詰ったままです。
IMF/世銀の改革に米国が消極的なのは、これが自らの世界戦略に関わるという認識によると捉えて間違いないでしょう。これまで述べてきたように、軍事力とともに国際金融は、米国の影響力を支える基盤になってきました。特に中国のIMF拠出金が日本とほぼ同じになることが、米国の危機感を募らせたとしても、不思議ではありません。
とはいえ、少なくとも結果的には、この米国の対応が今回の新開発銀行の設立を促す最後の一押しになったといえます。2012年にIMF改革が事実上とん挫した翌2013年3月、第5回BRICSサミットで新開発銀行の設立が合意されました。つまり、既存の枠内で「国力に見合った影響力」を伸長させることが米国によって抑え込まれたことが、BRICSなかでも中国をして新たな機関の創設という、やや挑戦的な反応を呼んだといえるでしょう。
しかし、これまた多くの識者が指摘するように、BRICSも一枚岩ではありません。2003年6月、インド(I)、ブラジル(B)、南ア(SA)3ヵ国首脳がブラジリアに集まり、IBSA対話フォーラムの結成が合意されました。これら3ヵ国は、複数政党制に基づく選挙が行われ、報道の規制がほとんどないなど、いわば民主的である点で中ロと異なります。IBSA対話フォーラムには、西側と対立しがちな中ロと全く同列に扱われることだけでなく、残る4ヵ国の合計を凌ぐGDP規模の中国の影響が強くなることに対する、この3ヵ国の警戒感を見て取れます。
この観点から、冒頭でみたように、経済力に大きな差があるにもかかわらず、5ヵ国が新開発銀行の資本金を同額ずつ出資することに落ち着いたのは、「立場の台頭」を強調する「南南協力」の原則からすれば当然ですが、それだけでなくBRICS内部の温度差を裏返しで反映したものといえるでしょう。(続く)