室町幕府の6代将軍足利義教は、なぜ籤引きで決定したのだろうか?
現在、複数の政党で党首選を行う予定で、誰が新党首に当選するのか話題になっている。室町幕府の6代将軍足利義教は、籤引きで新将軍に決まったので、その理由を考えることにしよう。
応永15年(1408)、足利義満が亡くなった。義満の死後、4代将軍に就任したのが子の義持である。義持は父義満が後継者を決定せずに死んだため、幕府の重臣斯波義将の判断で次の将軍に決定した。
義持は父の義満と関係が悪かったといわれているが、父の専制的な志向を受け継ぎ、室町幕府の最盛期を維持した。応永30年(1423)、義持は将軍職を子の義量に譲ったが、義量は病に罹り、わずか2年後に亡くなった。
義量の死後、義持は将軍に復帰したが、応永35年(1428)正月に風呂場で尻の疵を掻き破ったことが原因で病に伏し、重篤の状態に陥った。
ここで大問題となったのは、義持が後継の将軍を指名していないことだった。幕府の重臣たちは、死の間際の義持に後継者の指名を懇願したが、義持は決定することなく、病没したのである。
義持が将軍の後継者を決定しなかった理由は、①候補者である義持の弟らは、将軍の器でないということ、②たとえ後継者を決定しても、重臣らが支えなければ意味がない、という二つだった。
当時、将軍や守護は、重臣からの支持が得られなければ、後継者になることが困難だった。後継者問題については、重臣の意向を無視することはできず、義持の後継者問題も、その一つだったといえよう。
重臣らは醍醐寺三宝院の僧侶満済の助言に従い、籤により義持の後継者を決定することにした。籤で後継者を選ぼうとした理由は、仮に重臣らが義持の後継者を選んだとしても、揉める可能性があったからだろう。
当時、裁判の判決でさえも「神慮に委ねる」ことがあり、籤で後継者を選ぶことも同じ意味があった。むしろ、籤で後継者を選ぶことは、崇高な儀式でもあり、誰もが納得する方法だったのである。
新将軍の候補者は、青蓮院義円(のちの義教)ら義満の四人の男子だった。当時、義円は出家しており、青蓮院に入室していた。籤引きは石清水八幡宮で厳重に執り行われ、その結果選ばれたのが、青蓮院義円(義教)だったのである。