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独立系雑誌のパイオニア『話の特集』元編集長・矢崎泰久さん逝去。大晦日に家族が集まり納棺

篠田博之月刊『創』編集長
矢崎泰久さん近影(矢崎飛鳥さん提供)

死に直面しながら最期まで書き続けた

 既にニュースが流れているが、『話の特集』元編集長・矢崎泰久さんが12月30日に逝去した。翌31日、奥さんや子どもたちなど家族が集まり、矢崎さんを納棺。私も参加させていただいた。いつもかぶっていた帽子をかぶって棺に収まった矢崎さんは、最期までオシャレでダンディだった。

 葬儀は家族葬とすることが既に決められており、恐らくその後、知人たちによる「偲ぶ会」が開かれることになると思う。

 納棺という本来なら家族だけの営みに私が同席することになったのは、たまたま私が矢崎さんに出した手紙が30日に届き、息子の飛鳥さんが見つけて「父は今朝、旅立ちました」とショートメールを送ってきたからだ。

 最期の別れを告げるだけと思って斎場に足を運んだら、ちょうど今から納棺だというので僭越ながら参加させていただいた。昔ながらの無頼派というべき矢崎さんだったから家族は大変だったと思うが、最期にそんなふうに家族や孫に囲まれて、というのは幸せなことだったと思う。

〔追補〕ちなみに当初、家族葬とは別に、斎場で矢崎さんに面会することは可能だとここに書いたが、多くの人が希望した場合など関係者に迷惑がかかる恐れもあるので、その記述は撤回しよう。私はたまたま最期の別れができたが、本来は矢崎さんと家族の静かな時間を大事にした方がよいと思う。

「今夜は死への予感が強い」

 矢崎さんがこの春、倒れて緊急入院し、危険な容態となりながら緊急医療で復活を遂げてから、私は比較的頻繁にやりとりするようになった。私の編集する月刊『創』(つくる)で連載を始めたからだ。死に直面しながらも、最期までものを書いていたいという矢崎さんの意向に沿ったものだった。田原総一朗さんが、もし死ぬなら「朝まで生テレビ」の本番中に亡くなりたいといつも言っているのと同じ心境だ。

 一時、永六輔さんと矢崎さんが何年か『創』で連載対談「ぢぢ放談」を行っていた間は毎月会っていたが、その後は野坂昭如さんや和田誠さんら矢崎さんの盟友が亡くなった際に追悼記を書いていただき、そうした折に会うという関係だった。矢崎さんの書く追悼記は旧友への想いを込めながらも軽妙洒脱で秀逸だった。

 春の緊急入院の前にはもう体力的限界を悟ったのか、『週刊金曜日』の連載も降り、同誌6月3日号に「遺書」まで掲載した。しかし、一命を取り止めてから、またものが書けるようになったということで、『創』8月号から「ポンコツ亭日乗 言いたいことを言ってしまう」という連載を始めたのだった。矢崎さんはスマホのショートメールを使うだけでネットも使わないので、原稿は私が自宅近くの喫茶店で受け取るというやり方だった。

「ポンコツ亭日乗」とは永井荷風の最後の作品「断腸亭日乗」をもじったもので、矢崎さんの発案だった。自分で「たぶんあと何カ月かの命」と言っていたし、常に死と直面しながら書き続けた連載だった。第1回からこんな具合だ。

「この原稿を夜書いていて眠くなるんだけど、そのまま寝てしまって、朝果てていたら、絶筆の原稿が未完というので具合が悪い。そこでまたペンを握ることにした、今夜は死への予感が強い」

 死と直面しながら書き続けるというのもある意味壮絶で、矢崎さんらしかった。

「病院で死にたくない」と退院

 連載を始めた当初は、体が弱って杖をつきながらゆっくり歩くという矢崎さんと高井戸のマンション近くの星乃珈琲店でいつも打ち合わせした。ただ秋頃から私が忙しくなって、原稿の受け渡しは郵送になった。矢崎さんは昔から打ち合わせなどには「シノちゃんが来てほしい」と言っていたから私も何とか時間を作ろうと思ってはいたのだが、なかなかそうもいかなかった。ゲラの直しも電話でということになっていた。

 12月は年末進行で私がものすごく忙しくなったが、何とか時間をとって会いに行くと約束していた。矢崎さんは原稿を書くのも大変になっていたのか、「シノちゃんとの対談がいいな」と言っていたので、年明けからどうするか打ち合わせる予定だった。前述した矢崎さんと永さんの対談も、後半は永さんがパーキンソン病になって何度か入院し、私と矢崎さんが病院に永さんを訪ね、そこで永さんから聞いた話をもとに矢崎さんが対談の形にまとめるという形が多くなっていた。ちなみにこの対談は大変好評で、『ぢぢ放談』『ぢぢ放談激闘篇』という単行本になっている。「激闘篇」とは、永さんの闘病の話が大半を占めていたことから私がそう名付けたものだ。

 12月上旬、矢崎さんに電話した時につながらないので心配して何度もショートメールを打った。矢崎さんは急に体調を崩し、飛鳥さんが救急車を呼んでそのまま緊急入院したのだった。そこで白血病と診断されたという。21日に退院するのだが、これは「病院で死にたくない」という矢崎さんの強い意向でそうしたのだった。

『週刊金曜日』の土井さんは退院後訪れ、まだ意識はしっかりしているというので私も訪ねようかと思ったが、たぶん緊急医療態勢が続いているのでとも思い、様子を見ることにした。そして手紙を書いて、連載については心配しなくてよいので、もし話ができるようなら連絡をほしい、と伝えたのだった。私が忙しくて投函を延ばしたのが災いしたようで、その手紙が届いた30日朝に矢崎さんは他界してしまった。

 矢崎さんは原稿を郵送してくるようになってからも、原稿に同封した手紙に、自分の死期が近いことをしたため、しかし今は死が怖くなくなっているとも語っていた。秋から会えないまま矢崎さんが他界ということになっては後悔すると思い、手紙を書いたのだが、それが届いた日に亡くなったと聞いて、とても悔やまれた。

そこで飛鳥さんにお願いして、矢崎さんに対面する機会を作ってもらった。それが12月31日になったのだった。

独立系雑誌のパイオニアとしての『話の特集』

 筑紫哲也さん、井上ひさしさん、永六輔さんらが亡くなった時もかなりショックを受けた。日本が戦争の痛みを忘れ、「戦争のできる国」へひた走るようになったこの10年ほど、戦争には反対だと言い続けてきた世代が次々と亡くなっていくのは、とても辛く残念なことだった。

 でも今回、矢崎さんの死にはそれとまた少し異なる喪失感を感じた。それは恐らくこの30年以上、矢崎さんは『創』と私にとって身近な位置にいる存在だったからだろう。矢崎さんの連載を掲載するのも、「ポンコツ亭日乗」で3度目だった。

 矢崎さんは何といっても、大手出版社でない独立系雑誌のパイオニアだった。『話の特集』は、そういう存在として戦後の雑誌の歴史に刻まれている。2021年11月、『創』は創刊50周年を迎え(その中の40年以上、私は編集長を務めているのだが)、11月号の創刊50周年記念特集にも矢崎さんに原稿を書いてもらった。その時期までは矢崎さんは文章もしっかりしており、それからわずか1年で、こんな日を迎えるとは思いもしなかった。矢崎さんの奥さんは、今でも実家には矢崎の持ち物と一緒に『創』が置いてありますよと言ってくれた。

 2022年10月、矢崎さんは『夢の砦』という本をハモニカブックスから出版した。『話の特集』を振り返った本だが、矢崎さんと和田誠さんの共著と表記された。既に亡くなっている和田さんとの共著にしたことが矢崎さんらしい。死に直面しながら本を出すというのはすごいことだが、死に直面したからこそ『話の特集』の本を残したいと考えたのかもしれない。

「夢の砦」(ハモニカブックス刊)
「夢の砦」(ハモニカブックス刊)

息子の飛鳥さんが明かした最後の筆談「外へ」

 この記事の冒頭に矢崎さんの死去が既に31日夕方からネットニュースで報じられていることを書いたが、実はその前日、最初にそれを報告したのは飛鳥さんが「note」に書いた文章だった。全文は下記へアクセスいただきたい。

https://note.com/accn/n/na3a3c2f08f6c

《矢崎泰久(ジャーナリスト/元「話の特集」編集長)逝去のお知らせ

ACCN|矢崎飛鳥  2022年12月30日 12:06父・矢崎泰久(ジャーナリスト/元「話の特集」編集長)は急性白血病で2022年12月30日、永眠しました。

 家庭から遠ざかりワンルームの小さな城で長年、悠々自適に暮らしてましたが大好きな煙草も吸えぬほど衰弱し、2022年3月に緊急入院。驚異の回復力で退院し、高レベルの要介護となりましたが独居と執筆を続け、イベントに登壇するなど精力的に活動しました。同年12月に再び緊急搬送、しばらく入院するも本人の希望で城へ戻り、その10日後に旅立ちました。

 家庭のプライオリティーが低く、一般的には良き父・良き夫ではありませんでしたが、介護期間の約半年は人生で最も頻繁に会い、初めて父と子の関係になった気がします。その間、私は他人が金を払って聞くのが不思議なくらい父の話にうんざりしてました。くどく、捏造としか思えず。しかし、ものも言えぬようになると無性に淋しく感じました。そして過分に誇張はありましたが、それらの物語は全て父の生きた真の世界であったことを最期を見舞ってくれた人々から知ったのは、ドラマチックな体験でした。

 享年89歳。多くの仲間が先に逝きましたが、その都度、追悼関連の依頼や故人のあることないこと言ったり書いたりして収入を得ていたようですから、生涯に亘り友に助けられたと言えそうです。別れ際に母がラジカセで聴かせた中村八大さんのピアノで永さんが歌う「生きるものの歌」を涙ながらに口ずさむ様子は、これ以上ないほど彼の人生の終幕に相応しい場面でした。

“遊びの天才”の異名をもち、人々に慕われ、最期まで決して枯れることのなかった父。それなりに、いい人生だったのではないでしょうか。最後に握った手は強く握り返し、言葉は交わしませんでしたが真っすぐ私を見つめ、その瞳は少年のように澄んでいたのが目に焼き付いています。》

 この記事に添えられた写真は転載自由とのことなのでここに転載する。最後に矢崎さんが筆談で書いたのは「外へ」という言葉だったという。「外へ出たい」と書こうとしたのか、いつも自由を求めてきた矢崎さんらしい言葉だ。

矢崎泰久さんが最期に筆談で書いたもの(矢崎飛鳥さんの記事より)
矢崎泰久さんが最期に筆談で書いたもの(矢崎飛鳥さんの記事より)

独立系雑誌をめぐる矢崎さん岡留さんとの鼎談

 さて、ここで『創』が1996年、創刊25周年を記念してシンポジウムを開いた時の、矢崎さんと『噂の真相』岡留安則元編集長との鼎談の一部を再録しよう。一世を風靡した『噂の真相』の岡留さんも既に亡くなっており、紙の雑誌が次々となくなっていくという出版界の現状を思うと寂しい限りだが、ここで語られているようなことを忘れてはいけないという思いで再録する。そういえば2019年に岡留さんが亡くなった時も『創』4月号で追悼特集を組み、矢崎さんと佐高信さんが対談を行った。

 以下掲げるシンポジウムは1996年10月15日に行われたもので、会場には筑紫哲也さんやばばこういちさん(いずれも故人)らがつめかけ、会場からも発言した。

篠田 この1~2年、『思想の科学』『話の特集』など、マイナー系雑誌が次々と潰れていくという事態がありました。マイナー系雑誌というのは、少数意見の発表の場を確保するという貴重な存在意義があるのですが、この現実について考えることを通して、今のマスコミあるいはジャーナリズム全体の問題を考えてみたい。

 まず矢崎さんからお話を伺いたい。『話の特集』というのは、いわばマイナー系雑誌の先駆者だったわけで、その立場から状況をどうご覧になっているのか。

矢崎 潰れちゃった話を今からしてもしょうがないんですが、潰れた時にふと思ったのは、ああ『話の特集』も商業雑誌だったんだな、ということですね。志だけで30年やってきたつもりだったけど、やっぱり商業雑誌だったんだな、と。

『話の特集』が創刊されたのは、安保の谷間と言われた1965年でした。60年安保がああいう形で終わってしまって、少しずつ体制が強化されていった。権力というものが人々の目にはっきり見えるようになり、権威が息を吹き返してきた。だから、その当時、若い人たちの間には、反権威・反権力という立場から何か言いたい、何かしたいという気分が出てきたんですよね。そういう時期に『話の特集』は生まれたわけです。

 だからさっき篠田さんが言ったように、『話の特集』がゲリラ的な雑誌、ミニコミの先鞭をつけたという面はあると思う。その後、新左翼雑誌というのが雨後の筍のように出てきて、『現代の眼』とか『新評』『流動』『公評』『月刊ペン』。『構造』は今の『創』になるわけですが、とにかくそういう怪しげっていうのも変だけど(笑)、新左翼系というか総会屋系の雑誌。

『話の特集』はそれらとちょっと違っていたんですが、一方では『宝島』とか『面白半分』『ビックリハウス』『ローリングストーン』といった雑誌も出てくる。その頃のミニコミがいっぱい出てきてワアワアやっていたわけです。70年代にはそれらが勢いを持っていて、雑誌といえばむしろミニコミ、大雑誌よりは小さい雑誌の方がいろんなことができる、可能性がある、と言われたこともあった。

中央が矢崎さん、右端は岡留安則さん
中央が矢崎さん、右端は岡留安則さん

 その後、全共闘時代が終わってから世の中はどんどん堕落していくんですが、まあいずれにせよ、80年代までは『話の特集』も何とかやれたと思っていた。でもああいう個人的にしか存在しえない雑誌というのは、個人的な部分にこだわり続けると、サロン化したとか、マンネリ化したとか、いろんなことを言われるようになる。売れなくなると経営的にも大変になって、80年代後半からは「死に体」などと言われながら、気息庵々とやってきたわけです。

 でも一方、『噂の眞相』の岡留さんのように、雑誌が売れてるというのを大言壮語している人もいて(笑)……。

岡留 してないって(笑)。

矢崎 だけど篠田さんにしても岡留さんにしても、個人的ですよね。個人的だというのはすごく大事なことで、さっき篠田さんが言ったように、小さなメディアでしかできないことは今も絶対にあると思う。

 岡留さんも篠田さんも現役なんで、潰れてしまった側があれこれ言っても仕方ない。僕ができなかった分も含めて2人には頑張ってもらいたい。まあ、僕はもう老いぼれですからね。『創』と『噂の眞相』にはこれからも続けてもらって、もし変な方向に行くようだったら、僕が耳元でぎゃあぎゃあと嫌味を言ってやろうと思っています。

マスメディアの巨大化、官僚化、硬直化

岡留 いま矢崎さんがミニコミ誌の歴史をざっと語ってくれましたが、『噂の眞相』はその前身の『マスコミ評論』を含め、やはり創刊の原点には『話の特集』という雑誌の存在があった。その意味で矢崎さんはミニコミ雑誌界の大先輩だと思っています。僕が若くして資金力もなく雑誌を出せたのはやはり、矢崎さんの切り開いた基盤があったからで、その点では感謝しています。

 私も多聞にもれず全共闘世代で、70年安保闘争の政治的挫折を経て、その後市民社会でどう生きるかと考えた時に、かつてのゲバ棒に替わるものが結果的にペンと雑誌だったわけです。そこで75年、『マスコミ評論』を創刊しました。これは共同経営で編集人と発行人とが分離していたのですが、最終的に発行人と意見が衝突して、雑誌は空中分解を遂げてしまったわけです。

 その対立が決定的なものとなった時点で、私が会社を辞めて79年、『噂の眞相』を創刊した。編集人だけでなく発行人を兼務し、自ら言論だけでなく経営にも責任を負う形の言論の拠点で再スタートしたわけです。

 結果的には、最近の部数調査で言うと、『文藝春秋』に次いで月刊総合雑誌では2位ということになっています。でも私自身はそれを誇示しようという気はないわけで、いまだに私は『噂の眞相』をミニコミ誌という意識でつくっています。

『マスコミ評論』の時代からメディア界の裏舞台については何度も特集してきましたが、『マスコミ評論』と『噂の眞相』の違いは、メディア批評だけでは部数的に限界がある、そこを何とか突破しなければならないということだった。メディア批評はもちろん大事だけれど、『噂の眞相』はそれにとどまらず、大マスコミができないようなことを率先してやっていようという、多少思い上がってますが、そういう思いで雑誌作りをやってきた。だからターゲットはマスコミ業界だけでなく、政界・財界・官界含めて徹底してスキャンダルを暴いていく。

 今、ほとんどのメディアの組織が巨大化し官僚化し硬直化し、その結果として様々なタブーを抱えているわけです。例えば警視総監とか検事総長のスキャンダルを今のメディアでやりきれるところはない。これは個々の新聞記者の意識が低いということじゃなくて、デスク・部長・局長と上がっていく中で、いつしか現場の意識がそぎ落とされていってしまう組織の保守性にある。

 スキャンダル路線をとることでいろんな圧力を受けます。『創』もありましたが、『噂の眞相』も皇室報道がらみの問題で右翼の攻撃を受け、印刷所や広告スポンサーを全て切られてしまうという危機的状況に至ったこともありました。それから、グリコ・森永事件の時は、ハウス食品が脅迫されている事実をマスコミが警察庁要請の報道協定に縛られていっさい報道しない。それに対してうちの雑誌が、報道協定の批判を含めて存在そのものをすっぱ抜いた。そのことへの報復として警察のガサ入れを受けるはめにも陥りました。さらに最近では、これだけメディアが多い中で、東京地検特捜部の直々の刑事告訴を受けた雑誌というのは前代未聞だと思うけれど、そういう仕打ちにもあっています。『噂の眞相』は、地検特捜部がなぜ政治家の摘発ができないのかという告発を延々とやってきたわけで、権力側の政治的報復の意味も当然ある。

『文藝春秋』も最初はスキャンダルジャーナリズム

岡留 スキャンダル路線というのをとる限りそういうことはつきまとうわけで、この業界で私を嫌っている人間が多いという話を篠田氏が編集後記で書いていましたが、逆に言えばそれは当たり前のこと。私に言わせれば、あくまでも『噂の眞相』を支持してくれる読者が味方で、なれあっている文化人や御用評論家は容赦なく批判していきたいと思っています。そこまで仲間打ちをやらなくともいいんじゃないか、という声が業界にあることは百も承知ですが、それも含めて私は確信犯でやっているわけです。

 たまたま発売中の『噂の眞相』11月号では渡辺淳一の女性スキャンダルを書いているんですが、作家を抱えた大手出版社ではこれもタブーになっているわけですね。大作家のスキャンダルをやれば、文庫の版権を全部引き揚げられるといったことにもなりかねない。そういう文壇タブーも、国民の知る権利という観点からいえばおかしいのではないか。

 そうやって雑誌を10年以上続けるうちに、新聞社や週刊誌にネタを持ち込んでも取り上げてくれないのなら『噂の眞相』に持っていこう、という風潮が定着してきた。渡辺淳一の件も、きっかけはタレ込みです。読者あるいは業界で何らかの正義感を持った人たちが情報をもたらしてくれるという構造を作っていったわけです。   

 そういうノウハウを継続している限り『噂の眞相』は続けていけるわけですが、ただ私自身はこの雑誌が時代状況を捉えることができなくなったら、2000年であっさりやめると既に宣言しています。ただ、たまたま刑事裁判を抱えることになったので、裁判費用の捻出と検察と闘うためにはメディアが必要だという意味においてのみ、それ以降も続けていくことになるかもしれない。

矢崎 僕は今、『文藝春秋』を作った菊池寛について調べて書いているんですが、あの雑誌も創刊当時は『話の特集』に似ていたなんて言う人がいたんですが、調べていくとむしろ『噂の眞相』に似ているんですよね。よくわからないことをウラをとらずに平気で書いてしまう(会場笑)。次の号で謝ればいいという姿勢なんですよね。『文藝春秋』も生い立ちはスキャンダルジャーナリズムだったんです。だから他人の迷惑なんて考えたりしないで、わけのわからない怪しいネタでも平気で書いてしまうというのが『文藝春秋』にせよ『噂の眞相』にせよ、売れていく一つの原動力なんだろうと思う。

権力とマスメディアの関係

篠田 さっき岡留さんの話でちょっと出てきたんですが、今回、このシンポジウムをやろうとして、岡留さんがいかに嫌われているのか改めてわかった。参加してほしいと呼び掛けると、岡留の話を拝聴するようなシンポジウムに何の意義があるのかと拒絶する人が結構いるんですね。いや、これはこれで岡留さんというのはすごい人だなと、ある意味では敬意を表してしまうんだけれど……。

岡留 たださっきも言ったように、この業界のなれあい構造、例えばテレビに出演する場合も、特定の文化人とその一派がぞろぞろ出てくるとかね、そういう構造に私も入ってしまうことは国民の知る権利に逆行すると思っています。

篠田 いや、メディアの人間もある意味じゃ権力を持っているわけだから、追及されるのは当然だと思うんだけれど、ただその場合の権力と、本来の意味での国家権力というのではちょっと違うんじゃないの。私は、権力の座にある人間に対しては乱暴な批判も許されるけど、そうじゃない人に対しては誤爆は許されないし、人権への配慮もすべきだと思う。

矢崎 でもテレビなんかに出てる奴ってすぐに怪しくなるんだよ。だから岡留が少しやりすぎではあっても、しょうがない。

篠田 いや、テレビに出てる人がそうだってのは認めますけど、でもそういう悪口って面白がって読んでられるのは書かれてるのが他人だからじゃない? 矢崎さんて悪口書かれてましたっけ。

矢崎 とんでもない。俺の時なんて扉のイラストに描かれたんだから(会場笑)。『噂の眞相』を創刊する時に協力もしたのに、裸でヘンなことやってるイラストを載せられてるんだから。ひっぱたいてやろうと思った(会場笑)。そのイラストがまたクソリアリズムで、誰だかわかるように描いてある。しかも最近は、これは実在の人物とは関係ありませんなんて脇の方に書いてある。それだったらやめりゃいいじゃないか(会場爆笑)。

 平気ででたらめを書いて、次の号で謝ればいいんじゃないかというあの精神は、いくら何でもいい加減にしてくれないかと思うね(笑)。

篠田 でもその時のイラストの相手って誰だったの?

矢崎 そんなことどうだっていいじゃないか(会場爆笑)。

岡留 だけど、篠田氏がちょっと違うと思うのは、権力と文化人を区別したらと言うけれど、いまや両者が一体化している例はいくらでもあるわけじゃない。そのくらいのメディアを取り巻く文化人連中が権力の補完物になっているわけだから、実態がわかりにくくなっている権力を批判することも大切だけど、その代弁者である御用文化人を批判した方がわかりやすいというケースもある。

矢崎 でもきょうは会場にそうそうたるメンバーが来てるね。岡留もそんな中でよくそんなに言いたい放題のことが言えるよ。恐いもの知らずというか、殴られ強いというのか(笑)。

矢崎 メディア批評ということで言えば、僕もテレビはジャーナリズムじゃないとずっと言ってきた。それに対してばばこういちさんが怒っちゃって、そのことで僕と対立してきたんだけれど、案の定、テレビはジャーナリズムじゃないからTBSオウム事件なんていうのが起きちゃった。ほら見たことか、と僕がまたばばさんにそれを言うから、ばばさんは余計怒っちゃうんだけれど、テレビはメディアとしてはすごく強力なんだけれど、ジャーナリズムでいようとするといろんな問題を起こす。そのことについてテレビの人たちはもっと考えてほしいと思って僕は直言しているんです。

篠田 ばばさん、会場にいらっしゃいますか。

ばば 矢崎さんの話を聞いているとテレビだけがジャーナリズムじゃないかのような言い方に聞こえるんだけれど、活字だってジャーナリズムとそうでもないものがある。それをテレビはこうだって言うから、それはファシズムなんですよ(会場笑)。言いたいことは分かるけど言葉が足りない。

矢崎 ばばさんとは長年、この対立を続けているんです(会場爆笑)。

岡留 きょうは会場に業界の人が多いから、誤解のないように言っておきたいんですが、確かに『噂の眞相』は事実誤認があれば、変なプライドや権威主義を捨てて、即謝るというのを当然の基本姿勢にしています。それと、文化人についてはタカ派や保守派と言われる人に手厳しいのはもちろんだけれど、例えば公的な存在と認定できる筑紫哲也さんについても1行情報で、ある女性とできてると書くと筑紫さんの取り巻きの人たちから集中攻撃があるんだけれど(会場笑)。

篠田 それは当然だって(笑)。

岡留 でも筑紫さんに言いたいのは、有名人なんだからやはり女性関係には気をつけないと、もっとひどい『週刊新潮』にやられたらどうするんだと(会場爆笑)。

矢崎 警告を発してるんだ(笑)。ものは言いようだね。

篠田 筑紫さん、会場にいないですか。『噂の眞相』には1行情報で女性問題について3回くらい書かれてますよね。

筑紫 『噂の眞相』は僕については女性問題しかやってないんだから(笑)。

篠田 筑紫さんは書かれた直後は、事実と違うと言って怒ってましたよ。

矢崎 そりゃ認めるわけにはいかないだろう(会場笑)。でも岡留さんは、そういう下ネタをやって『噂の眞相』を売ろうという気持ちがあるの?(会場爆笑)

岡留 下ネタも人間性や人格の反映だし、人格を分析するには下半身から見ると実にわかりやすい。下半身にも人格があるという私なりの編集ポリシーがあるわけだから、いたずらに下半身のことを書いているわけじゃない(笑)。

篠田 でも、『FRIDAY』の編集長のスキャンダルは『噂の眞相』に載るけど、岡留さんの女性スキャンダルを載せるメジャー誌はないでしょう。だから『噂の眞相』がもっと売れるようになると岡留さんのスキャンダルも出てくるかもしれないよね。

矢崎 でも岡留さんについてはどんどんほかのメディアがひっぱり出して恥をかかせればいいんですよ(笑)。それが汚らしいと思ってるからみんな警戒しちゃう。本人にとっては幸か不幸かわからないけどね。   以上

『噂の眞相』は既に休刊しているが、「これからも続けてもらって、もし変な方向に行くようだったら、僕が耳元でぎゃあぎゃあと嫌味を言ってやろうと思っています」という矢崎さんの言葉は肝に銘じておきたい。

 矢崎さん、安らかにお眠りください。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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