【その後の鎌倉殿の13人】北条政子、伝説の演説再び!?鎌倉の危機に政子が御家人に語りかけたこととは?
貞応3年(1224)閏7月1日、三浦義村の動きを警戒した北条政子は、義村に「貴方(義村)は、ここにいなさい。別行動することはなりません」と厳命し、義村の行動を制限。義村は、北条泰時の邸で、政子らと過ごすことになります。
政子の次なる行動は、古参の御家人らを呼び寄せることでした。葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光といった御家人が、集まってきます。政子は、北条時房(政子や義時の弟)を通して、彼らに次のように伝えたと言われます。
「君主が幼い間(後に将軍となる三寅は、6歳)は、下の者は、謀反心を抑えるのが難しい。私は偶然、長生きしている。それは特別なことでないかもしれないが、我々がこうして生き残っているのは、亡き頼朝様の願うところでもありましょう。それならば、頼朝様の命に従い、我らが心を一つにしていれば、何者かが蜂起しても、大したことはありません」(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)と。
政子が、多くの御家人に語りかけると聞いて思い出すのが、後鳥羽上皇が北条義時の追討を掲げて、挙兵(承久の乱=1221年)した時のことです。この時、政子は自らの言葉を安達景盛に代読させました(『吾妻鏡』)。
「皆、心を一つにしてお聞きなさい。これがこの度の最後の命令です。頼朝様が朝敵を征伐して、関東に幕府を創設して以来、朝廷の官位にしても、褒美の領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものです。そうであるのに、今回、逆臣の讒言により、道理の通らない朝廷の命令が出ました。名を惜しむ侍は、早く、藤原秀康や三浦胤義を討ち取って、源氏将軍の残した鎌倉を守りなさい。ただし、朝廷側に味方したいと思う者は、この場で申し出なさい」
政子の言葉に、御家人たちは感涙を流し、官軍に加勢する者はいませんでした。今回(1214年閏7月1日)の政子の「演説」に対する御家人の反応は記されていません。前回と同じくらいの感激という訳ではなかったでしょうが、身が引き締まる想いで聞いていた御家人もいたと想像されます。
政子は、鎌倉の危機に際し、ここぞという時に、御家人に言葉を伝え、団結を促したのでした。