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【光る君へ】藤原伊周・隆家兄弟が左遷され、無念のうちに亡くなった母の高階貴子

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマでは、藤原伊周・隆家兄弟が左遷されたショックで、母の高階貴子が亡くなった。その経過などを取り上げることにしたい。

 高階貴子は成忠の娘として誕生し、藤原道隆の妻になった。2人の間に誕生したのが、伊周・隆家兄弟らの子たちである。道隆は順調に出世を重ね、父の兼家が亡くなると、その後継者として関白となった(その後、摂政になる)。

 同時に、伊周・隆家も順調に出世し、伊周は正暦3年(992)に弱冠19歳で権大納言となり、その2年後には内大臣に就任したのである。

 道隆は栄耀栄華を極めたが、長徳元年(995)に病没した。道隆の死後、伊周は後継の座に就くことを希望したが、それは実現することなく、道兼(道隆の弟)が関白となった。しかし、道兼も病気になってしまい、あっけなく亡くなってしまう。

 伊周には大きなチャンスだったが、道兼の没後は道長(道隆の弟)が内覧の座に就いた。このことがきっかけとなり、伊周は道長と対立した。

 長徳の変において、伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に弓を引き、矢が衣の袖を射抜いた。事件を知った一条天皇は、伊周・隆家兄弟を左遷するという厳罰を下した。伊周・隆家兄弟が左遷されると知り、もっとも嘆き悲しんだのは、母の貴子だった。以下、歴史物語の『栄花物語』によって、死に至る経緯を確認しよう。

 伊周は左遷されることが決まっても、往生際が悪く、宇治木幡に逃れていた。ようやく屋敷に帰り、検非違使が連行しようとすると、貴子は伊周にすがりついて離れようとしなかった。

 伊周が車に乗ろうとすると、貴子は伊周に抱きついて、一緒に乗ろうとしたという。あまりのことに道長は、隆家を但馬(本来は出雲)、伊周を播磨(本来は大宰府)に止めるように配慮したという。

 しかし、貴子は我が子と別れたことに強いショックを受け、ついに病気になった。口癖のように「伊周に一目会って死にたい」と寝言でも言っていたという。この一報を耳にした伊周は、何とかして貴子に会いたいと考えたが、それは難しいことだった。

 伊周は意を決して、夜を日についで上京し、人目を避けるため西院で密会することにした。会うことは叶ったが、伊周が無断で上洛したことは、すぐにばれた。伊周は大宰府に流罪となり、貴子は長徳2年(996)10月に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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