特別扱いされるホワイト・ヘルメット:シリア内戦をめぐる西側諸国の欺瞞
米国などの西側諸国が、シリアで活動を続けてきたホワイト・ヘルメットのメンバーとその家族を隣国ヨルダンに脱出させることに成功した。
ホワイト・ヘルメット(正式名称は民間防衛隊)は、反体制派支配地域各所で戦災者の救助や治療にあたってきたボランティア・チームに起源を持ち、2014年10月に英国人ジェームズ・ルムジュリアー氏の主導のもとで結成された組織だ。「中立、不偏、人道」を掲げて、救出活動を行うその様子は、インターネットなどを通じて世界中に拡散され、欧米諸国で称賛を浴び、ノーベル平和賞候補にもなった。
一方、ロシアやシリア政府は、彼らをアル=カーイダ系組織と同一視し、化学兵器使用疑惑事件の捏造や臓器売買に手を染めていると断じてきた。
救出作戦
ホワイト・ヘルメットを脱出させる計画は、7月半ば頃からCBS、CNN、そして『タイム』で報じられていた。ロシアの支援を受けるシリア軍が、シリア南西部の反体制派支配地域に対する軍事攻勢を強めるなか、ホワイト・ヘルメットのメンバーとその家族が「差し迫った危機」に晒され、シリア政府の「報復」に怯えており、事態を憂慮した欧米諸国が、彼らを隣国に脱出させ、第三国に移住させることを計画している――報道内容の概要はこのようなものだった。
計画は22日に実行された。
ヨルダン外務省のムハンマド・カーイド報道官は同日に声明を出し、ホワイト・ヘルメットのメンバーら約800人を入国させることを国連に許可したと発表した。入国許可は、英国、ドイツ、カナダが、彼らを一定期間内に自国に受け入れる旨文書で誓約したことを受けて出されたもので、「純粋に人道的な理由」によるとされた。カーイド報道官によると、救出されたメンバーは、最長で3ヶ月間、閉鎖地区内で外界との接触を断たれ、収容されるという(カーイド報道官は23日、西側諸国が受け入れを求めていたホワイト・メンバーの数が当初は827人だったが、最終的に入国したのは422人だったと発表した)。
一方、イスラエル外務省のエマニュエル・ナフション報道官も、ツイッターで「米国、カナダ、欧州諸国の要請を受け、イスラエルはホワイト・ヘルメットのメンバーとその家族を救出するための人道的努力を完了した」と綴り、彼らがイスラエル領(ないしは占領地)を経由して、ヨルダンに移送されたことを認めた。
ホワイト・ヘルメットも声明を出し、メンバー260人のみ(800人ではなく)がクナイトラ県から脱出したと発表した。
信じ難い「悲痛な叫び」
今回のホワイト・ヘルメットの救出劇は異様だった。
作戦実施に先立って、米・メディアはホワイト・ヘルメットの悲痛な叫びを伝えた。『タイム』(7月20日付)は、クナイトラ県で活動するホワイト・ヘルメットのメンバーの以下のような証言を紹介した。
クナイトラ県を含む南東部にシリア軍が激しい攻勢をかけていたのは事実だ。だが、無差別爆撃が続く反体制派支配地域で、死を恐れずに住民の救出活動にあたっていたはずのホワイト・ヘルメットが、住民を差し置いて命乞いをすることなど信じたくなかった。
救いの手を差し伸べられなかった住民
人道という価値観に真に依拠するというのであれば、西側諸国が救いの手を差し伸べるのは、ホワイト・ヘルメットではなく、住民に対してであるべきだった。ロシア・シリア両軍が南西部の反体制派支配地域への攻撃を激化すると、多くの住民がヨルダン国境地帯、そしてイスラエル占領下のゴラン高原の兵力引き離し地帯に避難していたからだ。その数は、シリア人権監視団などによると30万人以上にのぼるとされた。
しかし、西側諸国は、彼らのために何ら実効的な策も講じなかった。ヨルダンとイスラエルに至っては、国境を閉ざし、難民が流入するのを頑なに拒んだ。住民らは戦闘が終わると、シリア政府が支配するところとなった自らの町や村に帰っていった(拙稿「「シリア革命」発祥の地の報道されない惨状と、越境攻撃するイスラエルの狙い」を参照)。
かつての後援者から見捨てられた反体制派は、シリア政府との停戦に応じていった。彼らは7月9日にダルアー県のヨルダン国境全域を、そして12日にダルアー市中心街をシリア軍に明け渡した。ロシアの仲介により、反体制派は、重火器・中火器を棄て、シリア政府との和解を希望しない戦闘員は家族とともに、反体制派の支配が続くイドリブ県に退去を余儀なくされたのである。
クナイトラ県でも、19日にシリア政府との間に停戦合意が交わされ、20日から戦闘員と家族へのイドリブ県への退去が始まっていた。
忽然と姿を消さなかったホワイト・ヘルメット
奇妙なことだが、ホワイト・ヘルメットは、これまで各地で停戦が成立する度に忽然と姿を消していた。
シリア政府との和解に応じた元戦闘員や兵役忌避者のなかに、ホワイト・ヘルメットのメンバーだったと告白する者はいなかった。和解を拒否した戦闘員やその家族は、退去に先立ってシリア政府当局が氏名などを記録したが、その身元が暴露されることもなかったし、ホワイト・ヘルメットのメンバーのなかに退去したと証言した者もいなかった。だが、クナイトラ県での停戦に限って、ホワイト・ヘルメットは姿を消さず、メンバーの存在が「報復の恐怖に怯える人々」としてクローズアップされた。
クナイトラ県での停戦には、これまでと異なる点がもう一つあった。それは、シリア政府への武器引き渡し、投降・退去に応じた反体制派のなかに、シャーム解放委員会が含まれないとされた点だ。シャーム解放委員会とは、シリアのアル=カーイダ系組織が「ガラパゴス化」し、結成されたヌスラ戦線の後身組織だ(拙稿「ガラパゴス化するシリアのアル=カーイダ系組織」を参照)。
シャーム解放委員会は22日、停戦に応じた反体制派が放棄した地域から兵力引き離し地帯に退却、その際にクナイトラ通行所を破壊した。そして、この撤退と時を同じくして、イスラエルの占領地域とシリア政府支配地域に挟まれて孤立したシャーム解放委員会の残留地域から、ホワイト・ヘルメットが救出されたのだ。
シリア解放委員会と最後まで行動を共にすることはなかったとは言え、ホワイト・ヘルメットは、投降も退去も拒むことで、シリア解放委員会に同調したかたちとなった。こうしたシンクロこそが、ホワイト・ヘルメットを「化粧したヌスラ戦線」と断じる主張をサポートしてきたのだ。
ホワイト・ヘルメットはその一方で、西側諸国のレゾンデートルでもある人道に訴えかけてきた。だが、ホワイト・ヘルメットを特別扱いする西側諸国の行動のなかに人道主義を見出すことはできない。ホワイト・ヘルメットは、シリア内戦におけるこれまでの「働き」への論功行賞として、シリアから脱出し、欧州に移住する権利を与えられた――ホワイト・ヘルメットと西側諸国は、そう勘ぐられても仕方ない欺瞞に満ちた依存関係にあったのかもしれない。
(2018年7月24日に一部加筆した)