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【「麒麟がくる」コラム】ドラマであまり触れられなかった武田勝頼の最期。武田氏滅亡を検証する。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長に滅ぼされた武田勝頼。その最期は、あまりに悲惨なものだった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■不倶戴天の敵だった武田氏

 ドラマで武田勝頼の最期はあまり触れられなかったが、織田信長にとって武田氏を滅ぼしたことは大きな成果だった。以下、武田氏はいかにして信長に滅ぼされたのかを検証しよう。

■次々と裏切る家臣

 天正10年(1582)1月下旬、木曽義昌が勝頼から離反し、織田信長に与した。義昌の家臣・千村左京進が新府城(山梨県韮崎市)の勝頼のもとを訪れ、離反したことを告げたという。義昌の離反は、勝頼にとって大きな打撃となった。以降、勝頼は織田信長の子・信忠率いる軍勢と戦うが負け続け、ついには重臣らも離反する。

 3月5日、上杉景勝は武田氏へ援軍を派遣し、信濃の牟礼(長野県飯綱町)に到着。武田氏は、本隊の上杉家の重臣・斉藤朝信らの軍勢を待った。翌3月6日には、景勝が長沼(長野市)に援軍を送ったと禰津常安らに報告しているが、実際には派遣されなかった。武田氏は上杉氏からも見限られていたのだ。

 同年3月3日、勝頼を裏切った穴山信君は、家康の案内者となり、駿河から甲斐へと侵攻。勝頼の籠る新府城を目指した。一方の勝頼は高遠城(長野県伊那市)をはじめ、味方の諸城が次々と陥落したので焦っていた。しかも、信忠や家康の軍勢が新府に向かっていたことを知る。

 やがて武田方を見限る者が続出し、一門や家老らは早々に逃げ出した。すでに、勝頼の周囲には守備をすべき旗本すら事欠いていた。親族衆の武田信豊は、わずかな従者を引き連れ、小諸城(長野県小諸市)で籠城とした。しかし3月16日、信豊は城代の下曽根浄喜に叛かれ、母や嫡男とともに自害して果てた。浄喜は信豊の首を信長に持参したが、結局は誅殺されたという。

■新府城を捨てた勝頼

 勝頼は危機的な状況のなかで、新府城で籠城するのは困難と判断。3月3日、勝頼は新府城に火を放つと、家臣の小山田信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)に向かった。実は、岩殿城へ向かうことを決める際、勝頼の嫡男・信勝は新府城での籠城を主張し、武田氏の重臣・真田昌幸は上野・岩櫃城(群馬県吾妻城)へ逃れることを提案した。しかし、いずれの案も採用されなかった。

 新府城に放火した際、人質を残したままだったので、彼らが焼死する姿は地獄絵図だったという。勝頼は自身の妻、伯母など200余人の者たちと逃亡した。馬に乗っている者はわずかで、あとは歩いて岩殿城を目指した。女性や子供は山道を歩き慣れず、しかも裸足だったため、血が足に滲んでいたという。

 こうして勝頼の一行は岩殿山城へ近づいたが、過酷な現実が待ち構えていた。勝頼は小山田の館にたどり着いたが、信茂は勝頼を受け入れなかったのだ(『信長公記』)。また、勝頼が信茂のもとに使者を派遣したが、戻ってこなかったので、信茂が裏切ったことを知ったともいう(『三河物語』)。

 勝頼の一行は配下の者たちが道すがらで次々と離脱し、ついには41名になっていたので、途方に暮れるしかなかった。信茂に裏切られた勝頼の一行は、天目山の麓の田野へと向かった。天目山棲雲寺は武田氏の庇護を受けた寺院であり、武田氏ゆかりの地でもあった。勝頼は天目山の麓の平屋敷を陣所に定め、周囲に防御の策を構築し、当座をしのごうとしたのだ。

 3月4日、信君は駿府(静岡市駿河区)で家康に謁見し太刀などを贈ると、家康は刀と鉄炮100丁を与え、翌日に信君の江尻城(静岡市清水区)を接収。3月5日には、信長が軍勢を率いて安土城(滋賀県近江八幡市)を出発した。翌日には呂久の渡し(岐阜県瑞穂市)で仁科盛信の首を実検し、長良川の河原に晒した。

 3月7日、信忠は甲府(山梨県甲府市)の一条信龍(信虎の子)の屋敷に陣を構え、武田氏の一門、親類、家老らの探索を命じた。彼らは見つかり次第、次々と処刑された。こうして、甲府は織田軍に制圧され、武田氏の重臣らも抹殺されたのだ。

■武田氏滅亡

 3月11日、ついに勝頼の最期が訪れた(以下、『甲陽軍鑑』)。3月11日の朝、天目山の郷人ら六千余人が勝頼を裏切り、大将の辻弥兵衛が先頭に立って攻撃を仕掛けた。さらに、織田方の大将の滝川一益、河尻秀隆は5000余人の軍勢を率い、勝頼に攻めかかった。土地に詳しい郷人たちは、織田方の軍勢に裏に回るよう案内したという。

 武田勢はまったくの無勢で、相手にならなかった。勝頼は嫡男の信勝に武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持って、奥州を目指して逃げるよう命じた。しかし、信勝は勝頼が北条氏政の娘婿であることから、匿ってくれるはずなので逃げるよう逆に勧めた。信勝自身は、10年以上も前に信玄の遺言で武田家の家督を申し付けられたので、ここで切腹をすると述べたのだ。このとき、信勝は16歳の少年だった。

 織田方は決して攻撃の手を緩めず、残った女房たちは、残った武田の手の者によって介錯された。勝頼の近くには土屋昌恒が奮戦をしていたが、敵の槍に突かれ絶命。勝頼は昌恒の体に刺さった槍を引き抜くと、そのまま敵を6人切り伏せたが、喉と脇の下に計3本の槍を突かれ、ついに織田方に首を取られた。

 一益から信忠のもとへ、勝頼、信勝の首が届けられた。3月14日、信長は浪合(長野県阿智村)で勝頼らの首を実検した。信長は「勝頼は日本で知られた弓取りであったが、運が尽きてしまって、このようになってしまった」と感想を述べたという(『三河物語』)。3月15日に勝頼らの首は飯田(長野県飯田市)で晒され、その翌日に京都で獄門に掛けられた。

 晒された勝頼の首は、武田氏と関係があった妙心寺(京都市右京区)の住職が引き取り、葬儀を執り行った。また、法泉寺(山梨県甲府市)の住職・快岳は、勝頼の髪と歯を持ち帰り、同寺に葬ったという。勝頼とその妻、信勝の墓は、山梨県甲州市の景徳院にある。景徳院は、徳川家康によって建立された寺院である。景徳院には、勝頼がその上で自害したという石が残っている。

 こうして信長が恐れた武田氏は、あっけなくも滅亡したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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