「冷蔵庫は私の人生腐らせていた」持たない幸せも 6月21日冷蔵庫の日に食の「当たり前」を疑ってみよう
冷蔵庫はあってもいい、でも、なくてもいい
6月21日は冷蔵庫の日。元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんは、「冷蔵庫はなくていい」と語っている。なぜなら、その日の分しか食べ物を買わない生活でも、十分幸せを感じているからだ。
これを読んだ時、本当にそうだなと感じた。このコラムの前半には、朝日新聞に掲載された冷蔵庫の整理術が書いてあり、稲垣さんは「全くもってごもっともだが、冷蔵庫がなければ解決できることばかり」と評している。
次の号のコラムも核心を突いている。
稲垣さんの「冷蔵庫はなくていい」という論には、反対意見もあるだろう。字面だけ見ると「ない」のを勧めているように見えるが、そうではなく、「あってもいい、でも、なくてもいい」。冷蔵庫があるのが当たり前、ないのはおかしい、という固定観念に対する提言ではないかと思う。「できないよそんなの」と一刀両断する意見も見るが、稲垣えみ子さんの言いたいことの本質は何かを考えれば、単に「冷蔵庫なくてOK論」ではなく、二元論や固定観念への疑問とも言えるのではないか。
美味しさの目安「賞味期限」は本来アバウトでいい
食品の世界にも、杓子定規な規則がある。賞味期限だ。ピンポイントの日付で示されているものが多いが、日本では、法律上、3ヶ月以上の賞味期間があれば、日付を省略してよい。メーカー側も、製造日から起算した賞味期限の日付を、数字ではなく、アルファベットの記号で表記することで、関係者は判断でき、トレーサビリティ(追跡可能性)が担保できる。
だが、3ヶ月以上の賞味期間を持つ食品の多くに、まだ賞味期限の日付が入っている。たとえば1年以上の賞味期間があるレトルト食品やペットボトル飲料、乾麺(素麺)や、2年以上の賞味期間があるパスタ、3年間の賞味期間がある缶詰類など。その中で、ペットボトル飲料に関しては、業界団体が2013年5月から、日付を省略する動きを見せている。が、全てではない。
一般の消費者は、ペットボトル飲料などに日付が入っていようがいまいが関係ないし、買うときに見ないと思う。が、食品業界では、「日付後退品」と言って、前の日に納品された賞味期限表示より一日たりとも古い表示のものは納品が受け付けられない商慣習がある。だから、賞味期限の日付を抜くことで、むやみにトラックやドライバーが動く必要はなくなり、二酸化炭素の排出や労働力の浪費も防ぐことができ、食品ロス削減にも繋がる。
イギリスでは一歩進んで、18ヶ月以上の賞味期間があるものについては「年」のみの表示でよい決まりになっていることを先日紹介した。
食であり得ない「ゼロリスク」を求める日本
2011年3月の東日本大震災後、日本では、食品中の放射性物質を恐れ、基準値のレベルを巡って議論が白熱した。科学ライターの松永和紀さんは、東日本大震災後、筆者が主催した食品事業者向け講演で、「一般の方は、食品を真っ白なものだとイメージしていて、そこに一点のリスク(放射性物質)が入ると許さない、という姿勢をとっている。だが、食品の専門家は、本来、食品というのはリスクだらけであり、放射性物質もone of them(そのうちの1つ)に過ぎないということを客観的に理解している」という趣旨のことを説明した。
食品は、放射性物質や食品添加物のような科学的なリスクだけでなく、餅が喉に詰まるなどの物理的なリスクほか、たくさんのリスクを抱えている。われわれは、それらのリスクと共存し、食べ物を体内に取り入れて生きている。食のリスクは「ない」のが当たり前ではなく、「ある」のが当たり前なのだ。
2011年、放射性物質の規制値を下げるべきだという消費者らの意見に対し、松永氏はこう語っている。
リスクやクレームを恐れ「健康被害はないけど念のため回収します」という食品企業
20年ほど前、食品企業による食中毒事件が起き、食品企業の自主回収が相次いだ時期に、なんでもかんでも回収するのは資源の無駄になるので、回収するかどうかの判断基準として「消費者の健康被害の有無」が省庁から提言され、マニュアル(冊子)が発行された。だが、20年近く経つ今も、相変わらず「健康被害はないけど、念のため回収します」の類いを報道で見かける。これも、わずかなリスクを許さない風潮や考え方が生む食品ロスではないだろうか。
「あって当たり前」「ないのが当たり前」といった思い込みや固定観念は思考停止に繋がる。一度それを疑ってみることや、白か黒かでないグレーを引き受ける度量が必要ではないか。
参考記事: