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豊臣秀吉に登用されたものの、関ヶ原合戦後に悲惨な末路をたどった3人の家臣

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 7月に「もしも徳川家康が総理大臣になったら」という映画が公開され、竹中直人さんが豊臣秀吉を演じるらしい。こちら

 秀吉は農民の出身といわれ、譜代の家臣がいなかったが、栄達を遂げるにつれ家臣団を整備した。その中で、関ヶ原合戦後、悲惨な末路をたどった3人を紹介することにしよう。

◎石田三成(1560~1600)

 秀吉は、三成が寺の小姓だったときに会ったという。鷹狩りを終えた秀吉が三成に茶を所望すると、最初に大きな椀にぬるい茶を出し、次に中ぐらいの椀にやや熱めの茶を出し、最後に小さい椀に熱い茶を出したという。秀吉は感心して、三成を家臣にしたという。

 非常におもしろい話だが、明確な根拠はない。三成は秀吉のもとで検地奉行を務めるなどし、その才覚をいかんなく発揮した。秀吉の死後は、五奉行の一人として政権の運営に携わったのである。

 慶長4年(1599)閏3月、三成は七将に非道を訴えられ、本拠の佐和山(滋賀県彦根市)に蟄居することになった。翌年7月、徳川家康に叛旗を翻すが、関ヶ原合戦で呆気なく敗北。三成は逃亡したものの捕縛され、安国寺恵瓊や小西行長らとともに京都の三条河原で斬首されたのである。

◎長束正家(?~1600)

 正家の出自は不明で、誕生年もわからない。もともと正家は丹羽長秀に仕えていたが、天正13年(1585)頃から秀吉に仕えたという。謎の人物だ。

 正家は計算を得意としており、検地や年貢の計算などを秀吉から評価されたのだろう。文禄4年(1595)、正家は近江水口(滋賀県甲賀市)に5万石を領した(のち12万石に加増)。

 盟友の三成の失脚後、正家は家康与党となったが、三成の挙兵には応じた。関ヶ原合戦では、毛利秀元らと南宮山に布陣したが、合戦直前に毛利氏が裏切ったことを知る。戦後、正家は居城の水口城に逃亡したが、捕縛されて切腹を命じられたのである。

◎増田長盛(1545~1615)

 長盛もまた、出自や生年に謎が多い人物である。天正元年(1573)、長盛は秀吉に仕えたので、三成や正家よりも仕官するのが早かった。長盛は行政手腕に優れ、計算にも優れていたので、検地奉行などを担当した。

 文禄4年(1595)に豊臣秀長(秀吉の弟)が亡くなると、代わりに大和郡山(奈良県大和郡山市)に20万石を与えられたのである。大出世だった。

 関ヶ原合戦では西軍に与して敗北したが、命だけは助かり、武蔵岩槻(さいたま市岩槻区)の高力清長に預けられた。慶長19年(1614)11月に大坂冬の陣が勃発すると、翌年の夏の陣で子の盛次が豊臣方に味方した。しかし、豊臣家は滅亡し、長盛も自害を命じられたのである。

◎まとめ

 彼らに共通するのは、高い行政能力である。3人は豊臣政権に欠かすことができない人材だったが、家康の台頭により立場が危うくなった。それゆえ挙兵したが、毛利氏、小早川氏の裏切りを予想できなかった。そこまでの計算はできなかったようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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