豪州トップ調教師の下で厩舎長を務める日本人ホースウーマンを支える人達とは?
ニュージーランドからオーストラリアへ
皆様、ご存知の通りユニコーンライオン(栗東・矢作芳人厩舎)が豪州で走った。現地時間4月8日、豪州ロイヤルランドウィック競馬場で行われたクイーンエリザベスS(GⅠ)がそのレースだが、それから30分もしないうち、同じ競馬場のパドックで1人の日本人女性が馬を曳いていた。
池内あやか。
1994年11月14日、埼玉県で生まれ、3人きょうだいの末っ子として兵庫で育った。
「競馬とは無縁の家庭でしたけど、両親が動物好きだった事もあり、幼い頃から動物園や牧場にはよく連れて行ってもらいました」
そんな影響を強く受け、高校卒業後は北海道の帯広畜産大学に進学。馬術部に入ると、17年の卒業時にはノーザンファームから内定をもらった。
「北海道へ行く事も、馬術部に入部する事も、ノーザンファームへ就職する事も、両親は全て何も言わずに応援してくれました」
同じように応援してくれる人がいた。
「母方の祖父がいつも喜んでくれました」
幼い頃から夏休みの1ヶ月は祖父の家で過ごすのが楽しみだった。
「祖父も動物好きでした。毎朝、一緒に散歩をして、近所の犬に挨拶回りをしたのは良い思い出です」
こうした皆に応援されて、天下のノーザンファームでの生活が始まった……かというと、そうではなかった。
「大変ありがたい話だったのですが、頭を下げて内定を取り消していただきました」
就職前にニュージーランドへ飛び、競馬場へ行った。そこで衝撃を受けたのが、就職を辞退した理由だった。
「競馬場では多くの若い女の子が馬を曳いていました。衝撃を受け、ここで働きたいと思いました」
こうして南半球への移住を選択。クライストチャーチの英語学校に通いながらNational Trade Academyで英語と乗馬を教わった。
英語も徐々に上達し、かの国の生活にも慣れて来たそんな頃、大学の馬術部時代の仲間から、連絡が来た。
「オーストラリアの厩舎で働かないか?という話でした」
聞くと、あのウィンクスで有名なクリス・ウォーラー厩舎が人手を探しているという話だった。
「すぐに手を挙げ、19年からシドニーのローズヒルガーデン競馬場にあるクリスの厩舎で働かせてもらいました」
ワーキングホリデーだったため1年しか働けず、途中、5カ月程アローフィールドのトレーニングセンターへ移った。しかし、20年からは再びクリスの厩舎へ戻った。
配属された厩舎棟にはGⅠ馬のファンスターがいた。この牝馬に積極的に関わっていると、調教師から正式に面倒を見るよう、指示された。
「担当になった後、GⅡのファーラップSを勝ってくれました。GⅠではないけれど、凄く嬉しかったです」
厩舎長としての苦悩
こういった功績もあり、21年4月からは厩舎長を任命されるまでになった。
「毎朝3時半には厩舎へ行き、40頭いる馬の脚元や体調をもう1人の厩舎長と2人で全部、チェックするようになりました。馬装の手伝いや、洗ったり、飼い付けをしたりといった事もしています」
午後作業は14時から17時まで。厩舎長として、当然、指示も与えるが、これが一筋縄ではいかないと眉間に皺を寄せる。
「色々な国籍の人がいて、日本人なら常識と思える事が通じないのも度々でした」
『この馬はやりたくない』と言う人がいるかと思えば、就労時間中にトイレへ籠ったきり出て来なくなるスタッフもいた。また、1ヶ月ほど前に入ったばかりの19歳の英国人女性厩務員との間には、こんな事もあったと続ける。
「若いけど現場の経験者で自分の意見を持った子でした。馬を張る場所は、暴れて怪我をすると困るので、繋いだ箇所をあえて壊れやすい構造にしているのですが『この馬は何度も壊すから……』といって、そこを頑丈に作り変えてしまいました。わざと壊れやすい形状にしているんだよ、と伝えても聞く耳を持ってくれませんでした」
その直後、案の定、暴れた馬が怪我をしてしまった。
「彼女の感じている事も分かるけど、馬のためを考えると、意見を通さないといけない事もあると改めて思いました」
そして、同時に次のようにも感じたと続ける。
「私自身がもっとスタッフから信頼を得られるようにならないといけない。そう痛感しました」
最優秀厩務員賞にノミネート
時系列は前後するが、そんな池内は、昨年、レーシングニューサウスウェールズが選定する21~22年シーズンの最優秀厩務員賞にノミネートされた。
「結果的にはノミネートされただけで、選ばれなかったけど、家族も皆、喜んでくれたので、少し自分の仕事に誇りを持てました」
その後、牝馬の厩舎を任されるようになると、担当したルーツという馬が、GⅡを勝利した。
「ウォーラー厩舎で日本人オーナーの馬が重賞を勝つのは初めてでした。1年前に担当し出した頃は怒りっぽい子だったけど、頭が良くて教えた事はすぐに覚えてくれる性格が良かったのか、今ではだいぶ大人になり、ついに重賞を勝つまでになってくれました」
応援してくれる人達のために
しかし、良い事ばかりではなかった。約2ケ月前、応援してくれている両親から連絡が入った。
「祖父の具合が悪くなり、検査をしたら末期癌で余命数週間と診断されてしまったそうです。母も疲労困憊のようでした」
異国への移住を決めた時点で、何かあってもすぐには帰れないという覚悟はしていた。しかし、そうは分かっていても辛く、すぐにでも帰りたい気持ちになった。
「ただ、祖父も私が働いている姿を応援してくれていたので、今は帰国せずに頑張る事にしました」
可能な限りビデオ電話等で話すようにはしていると、余命宣告から2ケ月経った現在でも元気で、4月3日には86回目となる誕生日を迎える事が出来たと言う。
「応援してくれる皆に対し、誇りに思ってもらえるように、これからも頑張り続けます」
遠く1人頑張る日本人女性。いや、決して1人ではない。両親や祖父、支えてくれる皆が、一緒にいるのだ。だからこそ、異国でも笑顔で頑張れているのである。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)