関ヶ原合戦直前の大垣城の攻防。籠城した女性はいかに行動したのか
近代戦では女性も兵士として動員されるが、戦国時代は決してそうではなかった。とはいえ、女性の存在は重要だった。関ヶ原合戦直前の大垣城の攻防において、女性はいかに行動したのか考えてみよう。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦において、東軍を率いる徳川家康は、西軍を率いる石田三成に勝利した。関ヶ原に至るまでは、各地で前哨戦があった。大垣城の攻防もその一つである。
大垣城の攻防の模様を描いた作品として、『おあん物語』がある。同書の著者は、「おあん」(生没年不詳)である。「おあん」は、山田去暦(石田三成の家臣)の娘であり、同書が成立したのは正徳年間(1711~1716)といわれている。
「おあん」は子供の頃に体験した大垣城の攻防について、子供たちに語って聞かせた。『おあん物語』は、その内容を筆録したものである。なお、山田去暦の父宗純は、かつて家康の手習いの師だったといわれている。
以下、『おあん物語』により、大垣城内における女性の動きを示すことにしよう。
徳川方の東軍の軍勢が大垣城を攻囲すると、いくさのはじまる合図の鬨の声があがり、石火矢(大砲の一種)が城へと撃ち込まれた。たちまち城内が大混乱になったことは、いうまでもないだろう。
激しい攻防が繰り広げられる中、女性たちは討ち取った敵の首に死に化粧をしていた。軍功は、取った首の武士の身分によって評価された。歯が白いと身分が低く評価が低かったので、歯に鉄漿をつけて身分が高い武士のように見せかけた。女性は鉄漿を付けるよう、命じられていたのである。
女性たちは屋敷に敵の生首を持ち込むと、板の間に並べて鉄漿を付ける作業に従事した。夜は、生首の並ぶ中で眠った。ときに死臭が漂ったであろうが、慣れてしまうとぐっすり眠れたらしい。また「おあん」の14歳の弟は、目の前で鉄砲で撃たれて死んだのだから、戦場は過酷なものである。
大垣城の落城が迫ると、家康は去暦に矢文を送り、脱出を促した。去暦は妻と「おあん」に家来を1人つけると、塀の脇から梯子や縄を使って降り、たらいの船で堀から脱出した。すると、去暦の妻が急に産気づいて、娘を産んだという。
非常に生々しい記録であるが、いかに過酷な戦場であっても、「おあん」は黙々と生首に鉄漿を施した。それは慣れてしまったのか不明であるが、戦争の恐ろしさを物語っている。