【光る君へ】一条天皇も藤原伊周も泣いた。あまりに悲しかった藤原定子の最期の場面
今回の大河ドラマ「光る君へ」のラストの場面では、藤原定子の最期の模様が描かれていた。歴史物語の『栄花物語』には、その辺りの事情が詳しく描かれているので、再現することにしよう。
長保2年(1000)12月16日、藤原定子は亡くなった。その前日、定子は平生昌の屋敷で娘(のちの媄子内親王)を産んだ。この辺りの事情は『日本紀略』に書かれているが、史料の性格上の問題もあり、記述内容があまりに少ない。
定子の出産前から、死に至るまでの経緯を詳しく記しているのが、歴史物語の『栄花物語』である。文学作品なので、かなりドラマチックであるが、以下くわしく紹介することにしよう。
同年8月以降、妊娠していた定子は、かなり心細い心境となり、毎日のように涙を流していたという。それは、将来が不安だったからである。ただし、伊周らが面会に来るのが、定子の心の支えだった。
やがて、定子がお産の時期に差し掛かると、体調が悪くなったので、清昭法橋が御願立てなどを行った。その一方で定子は、伊周にお産の調度品の準備を急がせた。調度品は宮中から贈られる手はずになっていたが、定子は支度を急がせたのだ。
12月になると、定子はかなり苦しそうな容態となった。伊周らは、効験あらたかな僧を呼び寄せ、読経をさせるなどし、定子の回復と安産を願ったのである。
こうして長保2年(1000)12月15日、定子は娘(のちの媄子内親王)を産んだのである。定子のお産は安産だったと書かれている。とはいえ、一条天皇は、何度もお産の様子を聞いていたという。
お産を終えた定子にお湯を飲ませようとしたが、飲む様子が見られなかった。周囲はうろたえて騒ぎ出したという。伊周が明かりを持ってくるよう指示し、定子の顔を覗き込むと、すでに亡くなっていたのである。
定子の死を知った伊周は、嘆き悲しんだという。定子の死が一条天皇に報告されると、天皇もまた考えられないくらい落ち込み、悲嘆に暮れたのである。一条天皇の悲しみは想像を絶するもので、中宮の彰子のもとにも姿を見せなかった。