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城郭にトイレがなかった当たり前の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 この季節、急に腹具合が悪くなり、トイレに行く人は多いだろう。ところで、城郭にはトイレがなかったのだが、もちろんそれには当たり前の理由があったので、考えることにしよう。

 意外と知られていないことだが、姫路城は天守以外にトイレ(厠)の存在は確認されていない。姫路城の地階には、トイレが2つあった。2室には、落とし壺が3つあったという。なお、ほかの城に、トイレはない。

 昭和の大修理の際、トイレを調査してみると、落とし壺は備前焼であることが判明した。しかし、詳しく壺を調査したところ、使用された形跡がまったくなかったのである。

 実は、トイレを使用しなかったというわけではなく、正確に言えば、使用を禁止していたのである。ちなみに、姫路城のほかの櫓には、1ヵ所たりともトイレは設置されていなかった。

 トイレをあえて設置しなかったり、作ったとしても使用を禁止したりしたのは、城中を清潔に保つためだった。当時は今のように衛生を保つための薬品などがなかったので、とても重要なことだった。

 万が一、トイレの排せつ物が原因となり、城中に疫病が蔓延すると、もはや対策の手段がなかったのである。そこで、城中ではオマルを使用し、すぐに城の外に排せつ物を捨てていたのである。

 戦国大名の多くは城掟を制定し、城内の管理に腐心していた。城門の開閉、味方の兵士同士の監視、火の用心などに加え、排せつ物の扱いにも1条が割かれていたのである。

 天正9年(1581)6月、北条氏は浜居場城の城掟で、糞尿に関する規定を制定した。それによると、神馬の糞尿を毎日城の外に処分し清潔にすること、そして遠いところに捨てるよう指示している。

 翌年5月、北条氏は足柄城の城掟で、糞尿に関する規定を制定した。それによると、人馬の糞尿を手際よく措置し、1日でも2日でも先延ばしにしてはならないと指示している。

 当時は医学が発達した時代でもなかったので、いったん疫病が城中に蔓延すると、取り返しがつかないことになった。それゆえ、人馬の糞尿を適切に処分するよう求めたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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