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人間らしく遊ぶ子どもたちの姿には、たしかに大人の生き方を問いただす迫力があった

前屋毅フリージャーナリスト
丈の長い草をいっぱい摘んだ男の子の表情はちょっと得意そう? (撮影:筆者)

●本格的なハイキングスタイルが制服?

「森わら」(正式には「自然育児 森のわらべ多治見園」)には保護者である父親までを変えてしまう魅力をもっていると、前回の記事で紹介した。https://news.yahoo.co.jp/byline/maeyatsuyoshi/20190723-00135247/

それは、「森わら」だけでなく「森のようちえん」と呼ばれる自然育児を実践しているところ全部にいえるのかもしれない。

 その自然育児を、この目でみてみなくてはならない。そうおもって、「森わら」に押しかけた。

 朝の9時半くらいから、岐阜県多治見市内の丘陵地である「喜多緑地」に、クルマで母親に送られて子どもたちが集まってくる。「森わら」は多くの森のようちえんがそうであるように、決まった「園舎」をもたない。自然が教室なのだ。

 母親たちは子どもを送りとどけると帰っていくが、なかには残る母親もいる。「森わら」には、当番で母親たちも参加する。

 保育園や幼稚園なら、子どもを預けてしまえば、そこでお終いということになる。園における我が子の成長を目の当たりにすることができない。しかし「森わら」では、ここでの我が子の成長を自分の目で確認できるし、それをとおして自分も成長していく。だから、前回でも触れたように、我が夫に経済力よりも人間らしい生き方を望むようになるのかもしれない。この当番には、ときには父親が参加することもある。

 まずは、集まってきた子どもたち、そしてスタッフ(保育士の資格をもっている人もいる)の服装が気になった。かなり本格的なハイキング装備なのだ。スタッフの足元は、キャンピングシューズでかためられている。「本格的ですね」とスタッフに訊ねると、ニッコリして返事が戻ってきた。

足元は本格的なハイキングシューズ (撮影:筆者)
足元は本格的なハイキングシューズ (撮影:筆者)

「登ったり下りたりしますからね、じょうぶな靴のほうが結局は経済的にもお得なんですよ」

 そういわれて、あらためて周りの景色を眺めてみる。たしかに登り下りが多そうで、ここを歩くとなれば、ちょっとしたハイキングである。自然育児とはいえ、森のなかの平地になっているところで遊ぶくらいだろうという最初の予想は、早くも打ち壊された。

 参加した子どもたちは20人で、スタッフは当番の母親をふくめると7人いる。3人の子どもに対して大人は1人という勘定になる。この時点で、保育園や幼稚園とは違う。

●遅れたって誰もとがめない

 朝の会を済ませると、年少組と年長組に分かれる。年少組は「散歩」で、年長組はお絵描きのようなことをするらしい。もちろん、「森わら」らしい散歩の組に参加することにした。

 年少の組は、3歳と4歳だ。みんなが一緒に歩きはじめたのだが、しばらくすると遅れる子があらわれた。これが都会の保育園なら、保育士の「遅れないで!」という大きな声が飛んできそうな状況である。しかし、そんな声がスタッフから発せられることはない。そして、遅れた子を待つように、みんなが立ち止まる。子どもたちからも、「早くおいでよ!」なんて声は聞こえない。

 遅れている子が放っておかれているわけではない。スタッフの一人がつきそっている。近づいてみると、道の脇にイモムシを見つけて観察しているのだった。きっと、この子はイモムシを見ながらいろんなことを考えているにちがいない。それが成長につながっていく。

遅れても、急かせるのではなく寄り添う (撮影:筆者)
遅れても、急かせるのではなく寄り添う (撮影:筆者)

 つきそっているスタッフも、「みんなが待っているよ」など急き立てるようなことはいわない。いっしょになってイモムシを観察している。「これは、こういう虫だよ」とか余計なこともいわない。子どもの思考をジャマしないのだ。

 やがて、みんなが待っていることに気づいたのか、その子は自分からみんなところに向かって歩きだした。他人の存在を気にかけ、何をやるべきか自分で判断したのだ。考えてみれば、これだけでもすごい成長ではないだろうか。「早くしなさい」と命令してやらせれば、せっかくの成長の場が奪われることになる。

 こんなことをやりながら、子どもたちの散歩は続いていく。池では、「歌をうたったらカエルさんがでてくるかもよ」といって一人の女の子が「カエルの歌が~」と歌いだすと、何人かの子が合わせて歌いだす。それに興味がなくて、石をいじったりしている子だっている。それぞれが、それぞれの大事な時間を過ごしている。

 散歩して、ちょっと開けた場所に到着すると、子どもたちは荷物を降ろして遊びはじめる。そこに年長組も加わる。それでも、みんなで同じことをするのではない。それぞれが自分の遊びで楽しんでいる。

●人間らしい関係と時間が流れた

 そんななかで、花をつけた背丈の高い草をいっぱい集めている男の子がいた。両手に持ちきれないほどの量を集めているのは、その子だけだった。

 その子に目を惹かれていると、わたしのそばに一人の男の子が近づいてきた。そして、「あんなにいっぱい、すごい?」と、わたしに訊いてきた。「すごいよね」と応えると、その子は満足そうにニッコリ笑って、離れていった。自分も褒められようと、同じように丈の長い草を集めにいったのかとおもってみていると、まるで関係ないことをして遊んでいる。

 大人が褒めたからといって自分のやりたいことが左右されるわけではないようだ。褒められるためだけに、他の子と無理して競う気などない。それでも、「すごい」と他の子を認めている。人間としての「余裕」のようなものをみせられた気がして、余裕のない日々を送っている我が身をふりかえり、ちょっと淋しい気になってしまった。

 草を抱えた男の子の近くにいた女の子が、「写真、撮ってあげて」とわたしに向かって叫んだ。そして、男の子をわたしのほうに向かせる。男の子は、はにかんだような、ちょっと嬉しそうな表情でこちらを向いている。あわててシャッターを押す。ごく自然な、無理のない流れである。でも、しっかりとした繋がりのようなものが伝わってくる。

 スタッフである大人たちも、「そんなに集めてどうするの!」なんて野暮なことはいわない。手伝って持ってやるような余計なこともしない。

自分らしく、なびかない、他人に強いない  (撮影:筆者)
自分らしく、なびかない、他人に強いない  (撮影:筆者)

 あんなにたくさんの草を見たら母親に怒られるかも、なんてわたしは考えていたのだが、その子は全部を持って帰ったようだった。近くにいたわけではないので正確にはわからないが、迎えにきた母親も、たくさんの草を抱えた我が子を叱る様子もなく、自然に受け入れているように見うけられた。

 まだまだ、たくさんのことがあった。子どもたちがしっかりとした個をもっていることを、それに正直に向きあっていることを、それを誰もが認めていることを、ひとつひとつのことから感じることができた。子どもたちの姿、行動を見ながら、「ヘェー!」とか「そうなんだ!」などと胸のなかでつぶやいている自分もいた。もしかしたら、ほんの少し、わずかかもしれないが、そこでわたしも成長していたのかもしれない。

 そんな子どもたちの時間のなかで、いっさい聞こえてこなかったのが威圧的な大人の声である。子どもたちの成長が大人によってジャマされない環境が、そこにはあった。

 もちろん「森わら」のスタッフが、ただ子どもたちを放っているわけではない。全体を見渡せるところに位置して子どもたちの様子に気を配っているスタッフもいれば、近くで子どもたちの言葉に耳を傾けているスタッフもいる。それぞれの役割で、子どもたちを見守り、子どもたちの学び、成長をサポートしている。そんななかで、子どもたちは安心して自分の「個」を発揮し、伸ばしている感じがした。

 前回で、「人間らしく」という父親たちの感想を紹介したが、自然のなかという環境と同時に、こうしたスタッフたちの働きがあってこそ、「人間らしく」は実現されていくのだろう。たしかに、そこには成長の場があった。人間らしく成長する子どもたちは、たくましい。

                                                         (つづく)

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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