八ッ場ダムより水を貯めた渡良瀬遊水地の誕生秘話
山の手線内の南半分の面積に匹敵
2019年は29個の台風が発生し、このうち5個が日本に上陸した。特に台風19号は、列島に甚大な被害をもたらした。国土交通省によると、豪雨で川の堤防が壊れる「決壊」は7県、71河川、140か所で発生。川の水が堤防を越える「越水」は16都県の延べ285河川で発生した。
SNSなどでは「八ツ場ダムが首都圏を救った」という情報が拡散されたが、その貯水量は7500万立方メートル。
だが、それ以上に水を貯めたのが渡良瀬遊水地だった。渡良瀬遊水地の貯水容量は東京ドーム140杯分に当たる約1億7000万立方メートル。今回の台風では過去最大となる約1億6000万立方メートルをため込んだ。
この渡良瀬遊水地とは、どこにあり、どのように誕生したのだろうか。
一面に広がるヨシ原。
そこをすみかとする鳥の声。
ヨシ原に立ちこめる雲海のような朝霧。
湖面に反射する夕日、群青色の富士山の影。
時とともに変化する風景にカメラマンは何度もシャッターを切る。
日本最大の遊水池の面積は3300ヘクタール。東京都内を走る山の手線内の南半分(中央線以南)の面積にも匹敵する。
周辺を車で走るとカーナビの住所表示が猫の目のように変わる。
渡良瀬遊水地は茨城県古河市、栃木県栃木市・小山市・野木町、群馬県板倉町、埼玉県加須市にまたがり、近くには群馬、栃木、埼玉の県境(全国的に珍しい平地の3県境)があることから「境界マニア」といわれる人たちも訪れる。
いくつかのパンフレットには「治水・利水を目的に整備された」と記されているが、それだけではない。1906年まで、ここには栃木県下都賀郡谷中村があった。1898年の「日本帝国人口統計」によると、谷中村の人口は2534人、住戸数377戸。渡良瀬川、思(おもい)川、巴波(うずま)川の水が集まり、しばしば洪水に襲われたが、その反面、土地が肥沃で稲作が盛んだった。
日本初の公害・足尾鉱毒事件がきっかけ
谷中村の運命を暗転させたのは渡良瀬川上流にある足尾銅山からの鉱毒だった。
足尾銅山は1610年に発見されてから1983年まで400年近く続きました。明治維新から10年後、西南戦争のあった1877年に古河市兵衛に経営が移り、新しい大鉱脈が見つかると、政府の富国強兵政策とあいまって銅の生産量は急速に伸び、20世紀初頭には日本の銅産出量の4分の1を担う東アジア最大の鉱山になった。
当時の足尾は空前絶後の好景気に沸いた。銅山で働く鉱夫の電気料金は会社持ち、住宅費もタダ同然、本山から通洞にかけての道路には店が立ち並び、夜になると提灯灯りの下で客を呼ぶ女、酔っ払った男で賑わった。
しかし、銅の精製時に発生する亜硫酸ガスと鉱毒により、付近の環境は大打撃を受けた。
鉱毒による被害は、1885年、アユの大量死という形で表面化した。
実際には、問題が表面化する以前から、鉱毒は水だけでなく、着実に土壌を蝕んでいた。
鉱毒の影響で上流部の山林は少しずつ荒れていきった。同時に、製錬に使用する木炭原料、薪木、一般用材、坑内の支柱用材としても山林の乱伐が進み、禿山となった山体からは雨のたびに大量の土砂が流出した。土砂は下流部に堆積し、大規模な天井川を形成し、大雨の度に氾濫を繰り返した。
とりわけ1890年8月23日の大水害は、渡良瀬川沿岸一帯の農地を襲い、いっきょに鉱毒被害を顕在化させた。
渡良瀬川は、群馬県沼田市と栃木県日光市の県境にある皇海(すかい)山(2143メートル)に源を発し、いくつもの渓流を合わせながら、みどり市で南東へ向きを変え、桐生市、足利市、太田市、佐野市、館林市、栃木市を通り、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川本流へと注ぐ(地名はいずれも現在のもの)。
流路延長107・6キロは利根川の支流のなかでは鬼怒川、小貝川に続いて3番目、流域面積2602平方キロは利根川の支流のなかで最大。当時、一帯の田んぼは渡良瀬川から取水しており、また、足尾からの土砂も流入していた。ここで稲が立ち枯れるという被害が続出した。
農民は蜂起した。このとき農民運動の中心となったのが田中正造である。
田中正造は帝国議会でこの問題を取り上げるとともに、鉱毒被害の救済に奔走した。
1901年には議員を辞職し、明治天皇に直訴(未遂)。その後も被害者とともに、政府の計画によって廃村の危機にあった谷中村に住みながら反対運動を続けた。農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905年、政府は谷中村全域を買収し、鉱毒を沈殿させる遊水池を作る計画を立て、翌年実行された。
こうして現在の渡良瀬遊水地が誕生した。
田中正造は、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることで、運動の弱体化を狙ったと指摘している。
富国強兵のなかで無視された問題
足尾鉱毒事件は公害問題の原点といわれる。
被害の範囲は、渡良瀬川流域だけに止まらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。そして、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加し、1971年に収穫された米からもカドミウムが検出されている。
村もなくなり、人もいなくなった。
谷中村以外にも、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、同村に隣接する久蔵村、仁田元村も前後して廃村になりました。1899年の群馬・栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計1064人とされる。
足尾鉱毒事件で、なぜ被害者であるはずの農民の権利がことごとく無視されたのか。
背景には富国強兵政策がある。1894年に起きた日清戦争は、近代日本史上、最初の外戦での勝利だった。国民感情は戦争、軍備拡大に肯定的になっていった。軍備拡大には鉄鋼生産の増強が必要だったが、当時、鉄鋼は需要の約20分の1の生産量しかなく、輸入に頼らざるをえなかった。
そうした状況のなかで鉄鋼をはじめとする軍備・工場設備等の輸入は、銅の輸出と引き換えだった。銅生産のもつ意味は極めて重要であり、被害者である地元農民の存在は、帝国主義のなかで矮小化された。
洪水時の調節池、いきものにとってのゆりかご
現在の渡良瀬遊水地を歩いてみると、第一調整池には普段から水があるが、第二調整池、第三調整池は湿原、草原で一帯は希少動物の住処となっている。
しかし、大雨で川の水が急増すると、台風19号の時のように、その一部を貯めて下流に流れる量を少なくする役割を持つ。
渡良瀬遊水地はこれまでも何度か水害を防ぐ調整池として機能してきた。1949年、関東全体で1100人の犠牲者が出た「カスリーン台風」でも首都の被害の低減に役割を果たした。その反面、一帯には大きな被害が出たため、洪水のたびに貯水容量を増やしてきた。
2012年には、ラムサール条約湿地に登録された。ラムサール条約の正式名は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」で、国境を越えて行き来する水鳥のほか、生物の生態系に重要な湿地の保全などを国際間で協力していこうという取り組みだ。
その際、登録により池の容量を増やしたり維持したりする工事ができなくなり、容量が制限されるのではという懸念が周辺住民に根強く残っていた。そこで国交省と環境省が連携し、治水機能維持が目的の河川法と環境保護目的の鳥獣保護法を同時に適用し、治水と保護の両立を確約。住民説明会を数回開いて理解を求め、登録となった。
渡良瀬遊水地は、本州以南最大の湿地に絶滅危惧種183種を含む多くの動植物が生息・生育する生命のゆりかごである。
植物では、広大なヨシ原、河川の氾濫原を生育環境とするタチスミレ、トネハナヤスリ、ノウルシなどの希少種約60種、そのほかにも渡良瀬遊水地で発見され「渡良瀬」の名前を冠するワタラセツリフネソウなど約1000種類が生育している。
野鳥は約250種類が生息している。これは日本で確認された野鳥の種類の約半分と言われ、環境省レッドリストで絶滅危惧1B種とされるチュウヒの越冬地になるほか、オオセッカやオオヨシキリなどが生育する。昆虫は、ワタラセハンミョウモドキやオオモノサシトンボなど62種類の国指定絶滅危惧種を含む約1700種類が生育する。
無価値と見なされ消えゆく湿地
ラムサール条約における「湿地」という言葉の定義は「常時あるいは季節的に、水をたっぷりと含む土地、あるいは水に覆われる土地」です。
しかし、湿地は近年、急速に消えている。最近の推計では、1900年以来、世界の湿地の64パーセント以上が失われたとされる。日本でも明治・大正時代には約2110平方キロメートルあった湿地が、現在では約800平方キロメートルに減ったとされる。消滅した湿地は琵琶湖2つ分になる。
湿地が失われた原因は、土地利用の変化(農地と放牧地の増加)、ダム、水路、運河による水の流れの変化、インフラ開発(都市や川の流域、沿岸部における開発)などが原因だ。しかし、今後の豪雨災害が増加すると予測され、湿地の水をためる機能を見直す必要がある。
人々はしばしば湿地を不用の地と見なす。平時には「何もないところ」だからだ。だから焼き払い、水を抜き、埋め立て、別の用途に使おうと考える。
ですが、湿地は私たちの生活にとって必要不可欠。
まず、湿地は私たちにとって重要な淡水の供給源である。地下の帯水層にも水を補給する。そして食糧供給源でもあります。市場に出回る魚のほとんどは、一生のうちの一定期間を沿岸の湿地ですごすし、湿地の一種である水田で栽培される米は、世界で30億人の主食である。
汚れた水を浄化する働きもある。湿地にはたくさんの微生物群集がすみ、植物が生えている。
これらの生物は水のなかの有機物を分解したり、水のなかの二酸化炭素を吸収し酸素を供給する役割を果たす。干潟や川の底の土壌にもたくさんの生物群集がすみ、家庭、農地、工場から出た汚染物質を分解してくれる。
さらに、これまでの治水対策は河川区域だけに注目して行われてきた。水をコンクリートで制圧しようとした結果、洪水流量がかえって増え、さらに大規模な治水計画を立てるという「いたちごっこ」を繰り返すことになった。この考え方で「安全な暮らし」を追求しようとすると、限りなく堤防を高くし、ダムをつくり続けなければならない。
今後の気候変動にともなう水害や渇水に、従来のやり方だけで対応するのは技術面、コスト面でむずかしい。河川だけではなく、流域全体に視野を広げた治水対策が必要になっている。自然の緩衝材としての湿地は、自然界のスポンジのような働きで降った雨を吸収し、表面に広く水をため、河川の氾濫を抑える。「何もないのんびりとした風景」は母親のような包容力で私たち人間だけでなく、多くのいきものを守ってくれている。