武田氏の滅亡。無念の思いを抱きつつ自害した武田勝頼
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡が省略気味だったが、武田勝頼の最期は重要なので取り上げることにしよう。
天正10年(1582)3月、武田勝頼は岩殿城(山梨県大月市)で小山田信茂に裏切られ、途方に暮れるしかなかった。すでに配下の者たちは道すがらで次々と離脱し、わずか41名になっていた。勝頼の一行は天目山の麓の田野(甲州市)へと向かい、その麓の平屋敷を陣所とし、最後まで抵抗しようとした。
同年3月6日、呂久の渡し(岐阜県瑞穂市)で仁科盛信の首実検が行われ、長良川の河原に晒された。翌3月7日には、織田信忠が甲府の一条信龍(信虎の子)の屋敷に陣を構え、武田氏の一門、親類、家老らの探索を命じ、見付け次第に次々と処刑した。甲府は織田軍に制圧され、武田氏の重臣らも抹殺されたのである。
3月11日、ついに勝頼の最期が訪れた。同日の朝、天目山の郷人たちが勝頼を裏切った。その数は、6千余。大将の辻弥兵衛が勝頼に攻撃を仕掛けた。一方、織田方の滝川一益、河尻秀隆は5千余人の軍勢を率い、郷人らから案内を受けて、背後から勝頼に攻めかかった。
武田勢は無勢だった。勝頼は嫡男で16歳の信勝を呼ぶと、武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持ち、奥州に逃げるよう命じた。しかし、信勝は勝頼が北条氏政の娘婿だったことから、氏政が匿ってくれると考え、逃亡を勧めた。信勝は、信玄の遺言で武田家の家督を申し付けられたので、ここで切腹をすると述べたのである。
織田方は、攻撃の手を緩めなかった。勝頼の近くにいた土屋昌恒は奮戦をしていたが、敵の槍に突かれ戦死した。勝頼は昌恒の体に刺さった槍を引き抜くと、そのまま敵6人を切り伏せたが、喉と脇の下に3本の槍を突かれ、織田方に首を取られた。享年37。
実際には、勝頼とその妻、信勝は、自害したのが正しい。勝頼の辞世は「おぼろ(朧)なる 月もほのかにくも(雲)かすみ 晴れて行くゑの 西の山のは(端)」である。一益から信忠のもとへ、勝頼、信勝の首が届けられた。
同年3月14日、信長は浪合(長野県阿智村)で勝頼らの首を実検した。信長は「勝頼は日本で知られた弓取りであったが、運が尽き、こうなってしまったか」と感想を述べたという。翌3月15日、勝頼らの首は飯田(長野県飯田市)で晒され、その翌日に京都で獄門に掛けられた。
晒された勝頼の首は、武田氏と関係があった妙心寺(京都市右京区)の住職が引き取り、葬儀を執り行った。また、法泉寺(山梨県甲府市)の住職・快岳は、勝頼の髪と歯を持ち帰り、同寺に葬ったという。
勝頼とその妻、信勝の墓は、景徳院(山梨県甲州市)にある。景徳院は、徳川家康によって建立された寺院である。景徳院には、勝頼がその上で自害したという石が残っている。