「いじめゼロ」宣言は、いじめを温存する――「虐待ゼロ」「体罰ゼロ」 教育の世界にあふれるゼロ信仰
「いじめゼロ」宣言は、いじめを増加させる
先月、文部科学省が発表した「いじめ」の全国統計。財務省がその統計を用いて、「40人学級の復活」を文部科学省に要請したこともあって(詳しくは、Yahoo!ニュース「財務省に異議あり いじめ認知増で35人学級から40人学級へ?」)、いじめの件数は、例年にも増して注目を集めている。
さて、そのいじめへの対応・対策について、よく目にするのが「いじめゼロ」宣言である。都道府県教委、市町村教委、学校、学級それぞれの単位で、「いじめゼロ」がしばしば目標とされる。
いじめが「ゼロ」であるに越したことはない。子どもがいじめで苦しむことを、私たち大人は誰も望んでいない。だがここで強調しなければならないのは、「ゼロ」という数値目標は、いじめを減らすどころか、いじめを温存させてしまう可能性があるということだ。
鳥取県で「いじめゼロ」の撤回
鳥取県で10月下旬、教育委員会がいじめ防止啓発用のクリアファイルに記載予定だった「いじめゼロ」のスローガンをみずから削除するという出来事があった。
記事(「「いじめゼロ」標語不適切で変更…鳥取」読売新聞)によると、削除の理由は、「教員らが件数ゼロを意識して報告をためらい、子どもへの適切なフォローを損なう可能性があるとの懸念が出たため」である。なるほど、「いじめゼロ」をスローガンに掲げると、「件数ゼロ」を目指すことになる。そうすると、教師がいじめのような事案を見つけたとしても、それを報告できなくなってしまうというのだ。
「いじめゼロ」がとりわけ公的な目標として強調されるとき、そうした事態はより起こりやすくなると考えられる。「ゼロ件を目指す」と行政や管理職から言われると、事例を見つけても報告しづらくなるのは容易に想像がつく。
いじめの件数が減ったのは「ゼロ運動の効果」?
宇都宮市では、2013年度における小学校と中学校のいじめの発見件数(認知件数)が、2012年度の187件よりも25件少ない、162件であった。この数字の変化について、地元紙は、「市教委「ゼロ運動効果」」と見出しを打ち、「いじめゼロ運動の取り組みを充実し、未然防止に努めている」との市教委のコメントを紹介した。
これがそのとおりであれば、何も心配をする必要はない。だが、いじめの件数が減るということに関する見解が、先述の鳥取県のそれとまったくの逆であることに留意しなければならない。
鳥取県教育委員会は、「いじめゼロ」は教師からの事例報告を抑止してしまうと考えた。教師がいじめらしきものを見つけても、「いじめゼロ」宣言のプレッシャーにより、教師は報告を躊躇してしまう。この観点からすると、「いじめゼロ」運動を推進してきた宇都宮市でいじめの件数が減ったのは、大きな問題であると結論される。
ゼロ信仰からの脱却を
本当にいじめの件数が増えたのか減ったのか、それは誰にもわからない。ただ一つ言えることは、「いじめゼロ」宣言のよい効果だけを考えてはならないということである。
宣言により、啓発が進み、本当にいじめが少なくなっていくかもしれない。それだけなら、何も問題はない。だが留意すべきは、むしろ、ゼロ宣言がいじめを隠すことにつながってしまうという危険性である。
教育の世界には、「いじめゼロ」以外にも、さまざまな「ゼロ宣言」がある。「いじめゼロ」「虐待ゼロ」「体罰ゼロ」・・・ これらはいずれも、ゼロを目指すことよりも、まずは事例をたくさん拾い上げることのほうが重要である。
いじめも、虐待も、体罰(暴行)も、そもそも隠されやすい性質、公にはなりにくい性質のものだ。だからこそ、事例が発見され、認知されることは、基本的に重要なことと考えなければならない。「ゼロ宣言」は、その障壁となってしまう。
「ゼロ宣言」が、その意図とは裏腹に、何を帰結することになるのか。ゼロ信仰からの脱却が、教育の世界には必要である。
「いじめゼロ」を撤回した鳥取県教育委員会は、クリアファイルに「いじめの早期発見につながるようなメッセージ」を入れることにしたという。
「いじめゼロ」は非現実的である以上に、教師からの報告をためらわせてしまうことになる。それよりは、いじめが起こるということを前提にして、いかに早い段階で教師がそれに気づけるかという課題設定である。そのほうが、現実的な対応といえよう。
聞こえのよいスローガンに惑わされることなく、子どもの問題を冷静に見ていく態度が求められる。