樋口尚文の千夜千本 第48夜「ベトナムの風に吹かれて」(大森一樹監督)
映画を降臨させる祭祀のように
40年前に公開された16ミリの自主映画『暗くなるまで待てない!』から最新作『ベトナムの風に吹かれて』まで、そのほとんど全作をリアルタイムで伴走して観つづけ、かつて「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌に世界最長の大森一樹論を寄稿したことさえある私としては、ゼロ年代に入ってなかなか大型作品には恵まれずとも、あらゆるかたちで映画を撮り続けているその姿勢に最大限の敬意を払うばかりであった。大森監督に先行する撮影所の企業内監督たちの多くは、たとえばATGという仕組みのなかで貧しい現場をちょっと覗くことはできても、たとえばもう群小ピンク映画どころではない完全に底が抜けたデジタルムービーの時代になお映画を作り続ける知恵も足腰もないのではないか。
だが、大森監督やほぼ同世代の金子修介監督は自主映画も撮っていたし、撮影所で最後のプログラム・ピクチャー時代も経験した「境界人」的な位置にあるので、メジャーな撮影所大作も撮ればつつましい予算規模のインディーズ作品も撮る・・・という貴重な資質ゆえ、とにかく倒るるところに土を掴む構えで映画状況がどうなろうと、ハングリーに(といっても大森監督も金子監督もまるで作品自体は泰然としているのだが)映画を撮ってきた。そもそも大森監督は撮影所映画の興行が衰退しきった頃に『オレンジロード急行』で商業映画にデビューしたにもかかわらず、ATGで『ヒポクラテスたち』などを撮って評価を高め、バブル期には東宝で吉川晃司や斉藤由貴のアイドル映画やゴジラ映画を連打し、バブル崩壊後からゼロ年代までは東映や松竹でやくざ映画からラブコメ、ミステリー、スポ根、伝記までさまざまなジャンルの作品をこなしてきた。
そんな充実の作品歴を重ねてきた大森監督にしてこの十年、『悲しき天使』『世界の、どこにでもある場所』『津軽百年食堂』と、それぞれに大森監督らしい試みはなされているものの、映画のサイズがこぢんまりとして来た感は否めない。それ以前の大森一樹のフィルモグラフィは、ある程度の規模の大きさを保証されたメジャー映画会社の娯楽作品と、さらにインディーズ的な特徴ある中小作品が混在するところで豊かさを手に入れていた。しかし大手の映画会社の大きな企画は概ね守りに入り、一方ではデジタルの普及により中小規模の作品の製作費が極端に抑えられる・・・といったゆゆしき傾向に拍車がかかり、なかなかかつてのようなトータルとしての大森ワールドは築きにくくなってしまった。
そんなところへなんと大森監督がベトナムとの初合作映画を撮ったと聞いた時は、正直少し不安だった。というのも、ここまでバジェットが抑えられたデジタルムービーの時代に、さらにベトナムなんかにロケしたら、画面の貧しさが映画の虚構感を完全に削いでしまうのではないかと危惧したからだ。ところが完成した作品を観て驚いたのは、確かに派手さのないつつましい日常的な場面の連続ではあるのだが、大森監督は徹底して生っぽくないあくまでフィクショナルなタッチで、松坂慶子の(海外ロケのアイドル映画と言っても差し支えないくらいの)スタア映画をきっちり撮りおおせていたことだ。新潟出身のみさお(松坂慶子)はハノイで日本語教師を営んでいるが、父が亡くなってとりのこされた認知症の母シズエ(草村礼子)を引き取ってハノイで同居することに決める。海外経験もなく病気で挙動もあやしいシズエの介護が大変で、もうみさお自身がギブアップしそうになるが、そこに青春の頃の麗しい友人・小泉(奥田瑛二)との思わぬ再会があり、ベトナムに住む人々との交流も実り・・・で、なんとか困難を克服してゆく。
松坂慶子はさすがのスタア演技で娯楽映画としての磁場をつくり、そこに新進の日本人俳優やベトナムの実力俳優といった仲間たちを招きいれる感じだ。それは奥田瑛二もしかりである。そういえばこの二人が恋人として共演したスタア映画があったよなと記憶をたどると、1980年の山根成之監督『五番町夕霧楼』リメイク版の娼妓と金閣寺のお坊さんだったなあと気づいて感激したのだが、まさにあの作品では男女の官能的な絆で結ばれる役柄であった二人が本作では体の限界をいたわりあうような優しい関係になっていて、なんともいえず好ましい雰囲気が漂う。奥田瑛二といえば近作『赤い玉、』で、まさに老いにさしかかった永遠の不良のごとき映画監督に扮し、しかも79年の出世作『もっとしなやかに もっとしたたかに』の間抜けさを映画的に反復して感動的だったが、『ベトナムの風に吹かれて』は明らかにそういう映画のなかの住人であった人びとが集うところに虚構の構えが出来上がるのを大森監督が待っているふうであった。
そういう意味ではハノイの居酒屋店主に扮した斎藤洋介と新潟の実家の柄本明は『ヒポクラテスたち』の医学生仲間であったし、まさかの登場の吉川晃司は『すかんぴんウォーク』ほか青春三部作のスタアであったが(ここまで来ると原田芳雄や山田辰夫といった面々も天上から召喚したいくらいだが)、本作の重要なサイドストーリーはハノイの由緒ある劇場に往年の幻の名女優が再度降臨するというもので、これは実はこの映画の表現上の主題そのものではないかと思う。もともと大森監督は俳優の持ち味、匂い、立ち位置のようなものをしたたかに活かして映画の肉体を構築してきたが、画に華々しいお化粧を施す余裕のない本作にあっては、いよいよそこが頼みとなるのだった。言わば本作は、何もないところに映画を背負ってきた俳優たちを召喚して映画の生成を祈る祭祀のような映画であって、大森監督は一貫して泰然とフィクショナルな調子を保ち、ごくじわじわと映画らしい細部を積み重ね、最終的には思いがけないほどリッチな後味の小品に仕上げてみせた。
だが、そういえば松坂慶子と大森監督は何か縁があったような気がするのだが、これまでの作品には出ていないし、はて何であっただろうかと思い出せずにいた。ところが大森監督の発言のなかでその事がふれられていて、実は最初の劇場用映画『オレンジロード急行』の初日に、同時上映のこれまた山根成之監督『ダブル・クラッチ』の主演だった松坂慶子と銀座松竹の舞台挨拶で一緒だったのだという。なんと同い歳である大森監督と松坂慶子は、それから37年を経て再会し、この「同級生映画」を撮った。はるかここからして既にひとつの映画的な物語は始まっていたという訳である。