『ボヘミアン・ラプソディ』に見る「知る権利」
11月9日から20世紀フォックス映画配給のもと全国で公開される映画『ボヘミアン・ラプソディ』。全世界一斉公開とあって、話題性盛りだくさんの映画だ。私も1979年の来日公演を観て感動のあまり、会場で“出待ち”をしてロジャーに手を振ったことを覚えている(若気の至り……汗)。
さて、そういう思い出を胸に本編を観たのだが、クイーンの映画というよりも“フレディ・マーキュリーの映画”だった。ネタバレを避けたいので、映画全体のことについては多くを語らないが、内容はすばらしく、一見に値する、というよりファンであれば何回も観たくなるだろう。皆そっくりのキャスティングで、とくにジョン・ディーコンなどは、最初から最後までそのまんま。するっと感情移入できる。フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックも初めは飛び出た前歯に違和感を感じていたが、次第にそれも感じなくなっていく。「フレディの上顎の歯は通常より4本多い」ということなので、本人も本当にそれなりに飛び出ていたのだろう。
映画はフレディの私生活をも容赦なく描写していく。彼がゲイであったこと、HIV感染により死去したことは有名なことではあるが、その部分を触れずして、フレディの音楽的才能を語ることはできない。私自身も、そのことを知ってはいたけれど特に意識することなく、楽曲としてのクイーンに触れていた。
だからこの映画を観て、多少なりとも現実を見せつけられたような気がした。セクシャリティに裏打ちされたアーティストの創作活動をだ。現実に忠実なフィクションだからそう感じたのかもしれない。以前『イヴ・サンローラン』を観たときと同じ感情だ。しかし、素直に受け入れられるのもまた事実。いまになってスムーズに受け入れられるのは、2018年の現代だからであろう。ここ数年のLGBTを許容する世界の風潮もあるのだと思う(除トランプ)。
けれども1970〜80年代、それはまだ世間にカミングアウトできる時代ではなかった。だからこそニューアルバムを発表した記者会見でも記者からやたらと質問を受けた。クイーンのメンバーはアルバムのことを聞いてほしいにもかかわらず、フレディの私生活についてだけ。なかには「私たちには知る権利がある」とまで言い出す始末だ。
そもそも「知る権利」とは、1945年1月、ニューヨークタイムズの記事でAP通信社のケント・クーパー(Kent Cooper)が最初に使用した(1982年 DUKE LAW JOURNAL p26)言葉だ。その後、クーパーは1956年『知る権利(The Right to Know)』という書籍を著しているが、その意味は「民主主義社会における国民主権の基盤として国民が国政の動きを自由かつ十分に知るための権利。それにより、国家に対して情報の訂正・抹消を請求する権利」のことである。
だから、そもそも個人のプライバシーを詮索したいがために使用される言葉ではない。いまなおなんでもかんでも「知る権利」をかざして個人のプライバシーまで暴こうとする“ジャーナリスト”が少なくないが、それはまったくのお門違いであることを認識してほしい。
大衆の興味を引くという点、これを書けば雑誌や新聞が売れるという商業主義のもとでの欲求はわからなくはないが、だれにもかれにも「知る権利」があるわけではない。
映画の話に戻ろう。
いずれにしてもこの映画は、音楽総指揮として「フレディの意志を守るため」にブライアン・メイとロジャー・テイラーが関わっているというだけに、音楽にしても申し分がない。フレディ本人の歌声を使用したというラスト21分のパフォーマンスを堪能してほしい。