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他人と比べないようにしようと誓っても「つい比べてしまう」のはなぜ?

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

熱心に受験勉強をしてこられた人の中には、受験とは他人との戦いではなく自分との戦いだと聞かされてきた人もおいででしょう。受験って相対評価ですからデータ的には他人との勝負でしかないのですが、学校や予備校の先生のうち精神論がお好きな人といいましょうか、情緒的な人は「自分との戦い」を強調しますよね。

さて、では自分との戦いとは、哲学的に何を意味するのでしょうか。

もうひとりの自分

キルケゴールという哲学者がいます。彼は「私にしかわからないこと」を哲学したことによって、哲学史に必要不可欠な存在として知られています。大学受験用の倫理の問題集である「山川の一問一答」には1ページにわたって彼のことが書かれています。ほかに1ページまるまる費やされているのはマルクスやニーチェなどです。

そのキルケゴールの日記と主著『死に至る病』から見えてくるのは、自分の中のもうひとりの自分と「この自分」を私たちはつい比較してしまい、そのことによって葛藤する生き物だということです。

もうひとりの自分とは、例えば、生きる要領がよく、かつ偏差値60超で、マーチクラスの大学に進学している「理想の私」です。他方、「この自分」とは、生きざまが不器用で偏差値50ちょっとの私です。偏差値50ちょっとの「この私」は学校の先生に、「他人と自分を比べるな。受験は自分との戦いなのだから」と言われます。それで納得できる人はそれでいい。「ああ、そうか。他人と比べてはいけないのか。自分のライバルは自分なのか。克己心、克己心」そう思って話は終わり。

精神を理解できる人・できない人

しかし、そう意識しても、それでもなお他人と自分を比較してしまう人がいます。そういう人にとって、生きざまが器用で偏差値60超の頭脳をもつ「私」とはすなわち、「もうひとりの自分」「でしかない」ことが実感として理解できるのではないでしょうか。

キルケゴールは「精神」というものを理解する人と理解できない人がおり、前者には「もうひとりの自分」がよく理解できるだろうと言います。しかし、世の中には後者、すなわち精神というものを理解しない人の方が圧倒的に多いと――。このへんのことは170年前も現代も同じなのでしょう。

以上の概要を精緻に述べるとだれも読まない文章になる可能性があるので、このへんで簡単にまとめましょう。ざっくり言えば、他者と自分を比べたくなる気持ちや、そのことで湧きおこる嫉妬とは、うらやましい他人に対して湧きおこる感情ではなく、うらやましい他人が契機となって「もうひとりの自分」が眼前に立ち現れることによって生じる感情のことです。つまり「私の可能性=もうひとりの自分」に「この自分」が嫉妬することによって生じるのです。

精神論の入り込む余地

ということは、「もうひとりの自分」とは何なのか。それはどのような具体的な行動によって手なずけることが可能なのか。そういったことを知っている人のほうが心穏やかに生きていきやすいと言えます。

受験シーズンが到来しました。ふと、ある場所で「他人と比べるな。受験は自分との戦いだ」という、私が大嫌いな精神論を耳にしてしまったものですから、こんなことを書きたい気分になり、書きました。

心はすべからく構造をもっているのであり、精神論で済む話はじつは1つもありません。構造を知らない人が精神論を恥ずかしげもなく披露します。そもそも大学受験には知力と解答テクニックが必要なのであり、精神論の入り込む余地はどこにもありません。そうですよね?(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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