現在のリーディング調教師と、アーモンドアイを育てた師匠との裏話
調教助手時代に出合ったキリンのような馬
3月5日の競馬を終えて今年の勝ち星が12。東西を通じてJRAのリーディングに立っているのが奥村武調教師だ。
1976年7月、東京出身の46歳。自営業を営む父が競馬を好きで、見始めた。
「初めてテレビ観戦したのがホーリックスとオグリキャップが叩き合ったジャパンCでした」
これが89年の話で、翌90年にはアイネスフウジンが逃げ切った日本ダービー(GⅠ)を観戦。これが初めて現場で観た競馬だったという。
高校生の頃、父が他界したが、奥村の競馬熱は冷めなかった。当方の記した本を読み、この世界に入る事を決断したというのはお恥ずかしい限りだが、それが、彼が大学4年の時だったという。
北海道の牧場で馬乗りのいろはを教わった彼がトレセン入りしたのは2002年。翌03年2月からは国枝栄厩舎で調教助手となった。
国枝厩舎で働き始めて2年後の夏、出合ったのがマツリダゴッホだった。
「ヒョロっとして、首が長く、まるでキリンみたい」
第一印象ではそう感じたが、乗ってみると並の馬にはないバネを感じた。
「まるで折り曲げた鉄板が反動で伸びる感じ。そんな乗り味でした」
デビューすると奥村の感触に誤りはなかった。新馬戦を快勝し、その後も順調に成長を続けた。惜敗や競走中止のアクシデントもあり、多少時間を要したが、4歳になった07年にはアメリカジョッキークラブC(GⅡ)を制して初の重賞勝ち。同年秋にオールカマー(GⅡ)で重賞2勝目をあげると、暮れには有馬記念(GⅠ)をも制覇。9番人気で単勝52・3倍というダークホースだったが、競馬ファンが最も注目する一番で大穴をあけ、アッと言わせてみせた。
香港で師匠に言われた衝撃のひと言
そんなマツリダゴッホが翌08年の春、日経賞(GⅡ)を勝つと、勇躍、香港へ乗り込んだ。クイーンエリザベスⅡ世盃(GⅠ)に挑戦し、海の向こうでのGⅠ制覇を目指したのだ。
この時、グランプリホースと一緒に国境を越えたのが奥村だった。
「遠征の約1ヶ月前、偶然、香港競馬を見に行っていました。ゴッホが力を発揮出来る状態にもっていければ、充分に通用すると思いました」
だから、現地では一所懸命に接した。朝の調教を終えた後も「いかに完璧に仕上げるか?!」と考えていた奥村の目に、思わぬ光景が飛び込んだ。
「同じように外国からの検疫厩舎に入っていた馬の陣営が、調教を終えた後、のんびりと馬に草を食べさせていました」
カチンと来た。
「こっちは必死にやっているのに、こんな連中に負けたくない、と思いました」
そんな気持ちを知ってか否か、師匠の国枝が奥村に言った。
「そんなに仕事をするなよ」
唖然とした。
「『先生まで、何を考えているんだろうな……』って正直、思いました」
ところがレース当日のマツリダゴッホを見て、国枝の言わんとしていた事が初めて分かった。
「落ち着きを欠いてピリピリして、精神的に余裕のない状態になってしまいました。自分が毎日、張り切り過ぎて、彼に接していたせいだと感じました」
そして、同時に思った。
「国枝先生はそんな自分に警鐘を鳴らしてくれていたんだと思います。さすが、国枝先生だと思ったし、自分の器ではまだまだ足元にも及ばないと感じました」
結果は6着。馬群に沈むマツリダゴッホを見て、奥村は感じた。
「自分の気持ちがゴッホに伝わってしまい、こんな結果になってしまった……」
マツリダゴッホを置き去りにして、先頭でゴールに飛び込んだ馬はアーキペンコ。草を食べさせてもらっていた馬だった。
このような経験を糧に調教師となると、14年に開業。マツリダゴッホがくれた反省材料を、現在でも活かし続けている結果が、10年目となる今年のスタートダッシュに結びついているのだろう。ちなみに現在の関東リーディングで奥村に続き2位につけているのは、国枝厩舎である。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)