豊臣秀次事件に連座し、豊臣秀吉から自害を命じられた3人の武将とは?
不祥事で社長が引責辞任する際、重役がともに辞任することは珍しくない。豊臣秀次が義父の秀吉から切腹を命じられた際、連座して自害を命じられた武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎木村重茲(?~1595)
重茲は定重の子として生まれ、のちに秀吉に仕えた。秀吉に従って大いに軍功を挙げた重茲は、天正13年(1585)に越前府中(福井県越前市)に12万石を与えられ、のちに秀次の配下に加わった。さらに18万石に加増されると、山城淀(京都市伏見区)に移されたのである。
文禄4年(1595)の秀次事件の際、重茲は秀次をかばったので、秀吉は激怒した。同年7月15日、秀吉は重茲に大門寺(大阪府茨木市)で切腹を命じた。長男と娘も死ぬことになったが、子の重成は生き残り、大坂の陣で豊臣方として活躍した。
◎前野長康(1528~1595)
長康は織田信長に仕えていたが、のちに秀吉に従った。信長の死後、長康は秀吉に従って各地を転戦し、最終的に但馬などに11万石を領する大名になった。それから秀次に仕えるようになったが、秀次事件で運命が暗転したのである。
事件を受けて、長康も重茲と同じく、秀次を弁護した。これが秀吉の逆鱗に触れ、中村一氏の屋敷に預けられることになった。先に長男の景定が切腹を命じられると、長康はあとを追うようにして、六漢寺(京都市伏見区)で自害して果てたのである。
◎服部一忠(?~1595)
一忠は信長の馬廻として知られ、桶狭間の戦いでは今川義元に一番槍をつけた(首を取ったのは毛利新介)。信長の死後、一忠は黄母衣衆として秀吉の配下に加わった。天正19年(1591)、一忠は伊勢に3万5千石を与えられ、秀次の配下に加わった。
秀次事件が勃発すると、一忠は連座して改易とされ、その身柄は上杉景勝に預けられた。その後、秀吉から自害を命じられたのである。子の勝長は処分を免れ、大崎長行(重茲の旧臣)の養子となり、関ヶ原合戦、大坂の陣に出陣したことが知られている。