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「戦国の梟雄」毛利元就に逆らって消えた、3人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利元就。(提供:イメージマート)

 会社などで、社長や上司に楯突いて泣きを見る人は少なくないだろう。毛利元就に逆らって消えた武将がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎井上元兼(1486~1550)

 元兼は有力な安芸国人の一人で、毛利弘元(元就の父)に従っていた。元就が毛利家の家督を継承したとき、井上一族も起請文に連署して忠誠を誓った。ところが、毛利家中において、元兼ら井上一族の専横が目立ち、元就も見過ごすことができなくなった。

 天文19年(1550)、元就は元兼ら井上一族の30余名を粛清した。ただし、忠誠心の強かった者は難を逃れたという。元就は家中統制を行う上で、専横な振る舞いをする者を許さず、粛清を行うことで家中の結束を高めようとしたと考えられる。

◎陶晴賢(1521~1555)

 陶晴賢は大内氏の家臣だったが、天文20年(1551)に主君の大内義隆を死に追いやった。晴賢は大内義長(宗麟の異母弟)を擁立したが、やがて元就と対立するようになった。天文24年(1555)、ついに両者は厳島(広島県廿日市市)で雌雄を決した。

 元就は村上水軍の助力を得るなどし、晴賢の本陣に奇襲攻撃を行った。晴賢は戦地から離脱したが、逃げる途中で自害して果てたのである。2年後、元就は山口(山口市)に攻め込むと、義長を自害に追い込み、中国地方の盟主としての地位を築いたのである。

◎尼子義久(1540~1610)

 永禄3年(1561)、義久は父・晴久の死により、家督を継承した。父の代から元就と抗争を繰り広げていたが、劣勢は否めなかった。永禄9年(1567)、義久は元就に屈し降参した。こうして、尼子氏は事実上滅亡したのである(一族の勝久は再興運動を続けた)。

 とはいえ、義久は殺されることはなく、毛利氏に客分として処遇された。その後、出家して友林と号すると、慶長15年(1610)に亡くなったのである。義久は何とか生き長らえたが、飼い殺しのような形で、家名だけは保ったということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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