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2022年に周年を迎える災禍、事故や災害が多発、大地震にも変わらず備えを

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

2012年の竜巻・豪雨と笹子トンネル天井落下事故

 5月6日に茨城県や栃木県で竜巻災害がありました。藤田スケール(藤田哲也博士が考案した被害の状況から推定する竜巻規模)が3の竜巻で、つくば市を中心に、死者1人、負傷者37人、全壊家屋210棟などの被害がありました。

 7月11日から14日には、平成24年7月九州北部豪雨があり、熊本県、福岡県、大分県などで、死者・行方不明者32人、住家全壊363棟、床上浸水3,298棟などの被害が出ました。とくに,阿蘇市では、土砂災害などで21名もの死者が出ました。

 12月2日には中央自動車道の笹子トンネルで、天井板落下事故がありました。130mにわたって天井のコンクリート板が落下し、走行中の車が巻き込まれて9名が死亡しました。その後、各地のトンネルで、天井の改修が行われることになりました。

1982年の日航機墜落・ホテルニュージャパン火災と長崎水害

 2月8日に東京でホテルニュージャパン火災が起きました。著名人が利用するホテルでの火災で、33名もの死者が出ました。日本人に加え、台湾、韓国、アメリカ、イギリスの宿泊客が犠牲になりました。宿泊客のたばこの不始末が原因で、消防設備の不備や初動対応の不味さなどが重なり、社長の横井英樹氏は、業務上過失致死傷の実刑判決を受けました。

 翌日、2月9日には日本航空350便の墜落事故がありました。ダグラスDC-8-61型機が羽田空港沖に墜落し、乗員乗客174人中24人が死亡しました。機長の精神的な異常行動による逆噴射が原因で、事故後、心身症の問題が話題になりました。東京消防庁は、前日の火災対応に続く事故対応に翻弄されました。

 7月23日から翌24日未明にかけては、昭和57年7月豪雨と呼ぶ豪雨災害がありました。長崎県長浦岳観測点での最大1時間降水量153は歴代1位の記録になりました。死者・行方不明者299人、住家全壊584棟、床上浸水約1万8千棟と、甚大な被害でした。、斜面が多い長崎市で土石流やがけ崩れが多発し、死者の約9割は土砂災害によるものでした。この災害をきっかけに、気象庁が記録的短時間大雨情報を発表するようになりました。

1972年の千日デパート火災、北陸トンネル火災事故と豪雨災害

 5月13日に大阪の千日デパートでビル火災が起きました。商業施設や風俗店が入居した雑居ビルで、一酸化中毒などで上階の風俗店を中心に118人の死者が出ました。日本の史上最悪のビル火災で、上下階を貫く竪穴の問題や、スプリンクラー設備の重要性が認識されました。この火災を契機に消防法が改正され、消防用設備等の設置基準の既存建物への遡及適用が行われることになりました。

 7月3日から13日には、昭和47年7月豪雨とよぶ豪雨災害がありました。九州、中国・四国、東海地方を中心に、死者・行方不明者447人、住家全壊2,977棟、床上浸水55,537棟という甚大な被害を出しました。天草の上島では海岸の集落が丸ごと土砂に飲み込まれ100人を超す人が死亡しました。高知でも土佐山田町で60人もの犠牲者を出しています。矢作川上流の愛知県西三河地方や岐阜県東濃地方でも洪水や土砂崩れが起き、愛知で68人、岐阜で27人が犠牲になりました。2018年西日本豪雨を彷彿とさせる大水害です。

 11月6日には福井県にある北陸トンネルで列車火災事故がありました。大阪発青森行きの急行「きたぐに」で火災が発生しました。13.9kmもの長大トンネルのほぼ中央での火災だったため、避難や消火が難しく、一酸化中毒などで30人もの死者を出しました。この事故をきっかけに、長大トンネルや地下鉄の車両の難燃化・不燃化、火事対策などが進められることになりました。

1952年の十勝沖地震

 3月4日の10時22分44秒に、北海道襟裳岬沖の深さ54で、M8.2の巨大地震が発生しました。千島海溝沿いの典型的なプレート境界地震で、最大震度は6、厚岸で高さ6.5mの津波を観測しました。被害は、死者28人、行方不明者5人、住家全壊815棟、流失91棟などになりました。前日3月3日が1933年昭和三陸地震の記念日で、津波避難訓練が行われていたことで犠牲者が減じられたようです。ちなみに、同じ場所では、2003年9月26日にもM8.0の十勝沖地震が発生しています。

1942年のミッドウェー海戦

 6月5日から7日にかけて太平洋上のミッドウェー島付近で日本海軍とアメリカ軍が大規模な海戦を行いました。真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争ですが、日本海軍は開戦半年後、ミッドウェー島の攻略をめざしました。ですが、空母4隻と艦載機約290機の全てを失う大敗北で、太平洋戦争の転換点になりました。

1912年の大陸移動説とタイタニック号沈没

 1月6日にフランクフルトで開催された地質学会で、アルフレッド・ヴェーゲナーが大陸移動説を発表しました。南アメリカ大陸東岸とアフリカ大陸西岸の海岸線が似ていることに気づき、過去の氷河の分布、古生物の分布、古い岩石の分布、山脈の分布などから、大陸が移動していると発表しました。残念ながら、当時は受け入れられませんでしたが、1960年代になってプレートテクトニクス理論により見直されました。

 4月14日には、当時世界最大の客船だったタイタニック号が北大西洋で氷山に衝突し、沈没しました。救命ボートの不足もあり、1,513人が低体温症などで死亡し、生還したのは710人です。事故の後、海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)が締結されました。

1902年の八甲田雪中行軍遭難

 1月25日に北海道旭川市で、日本の最低気温記録の-41.0度を記録しました。そのとき、日本陸軍の青森歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍をしており遭難しました。日本陸軍は、日露戦争に備えて、厳寒地での戦いのための冬季訓練を必要としていました。第5連隊の210名は、1月23日から行軍をしており、199人が凍死しました。

1872年の浜田地震

 3月14日に、島根県浜田市沖で発生した地震で、地震規模はM7.1とされ、死者は555人と言われています。明治になって最初の大規模地震でした。

4月3日には、銀座で5千戸弱が焼失する大火がありました。丸の内、銀座、築地が焼失し、その後、銀座煉瓦街が建設されることになりました。

1822年のコレラ流行

 日本で初めてのコレラの流行が起きました。コレラは、インドのガンジス周辺での風土病でしたが、イギリスのインド進出と共に世界各地へ拡大するようになりました。江戸時代には三度のコレラの流行があり、最初が1822年の文政のコレラ流行です。主として西日本、とくに大坂で多くの感染者が出ました。二度目は、1858年、安政5年のコレラ流行で、江戸でも多くの感染者が出ました。最後は、1862年の文久2年の流行で、麻疹も流行しました。

1792年の島原大変肥後迷惑

 島原半島の雲仙普賢岳の噴火活動の中、5月21日の夜に火山性地震によって、眉山が山体崩壊し、島原城下が埋没しました。大量の土砂が有明海まで流れ込み、大津波を引き起こしました。津波は、島原に加え、有明海の対岸の肥後国(熊本県)にまで達し、島原で1万人、肥後国で5千人が犠牲になりました。火山と地震と津波という珍しい複合災害です。島原市沖に浮かぶ九十九島は、土石流の跡です。

1782年の天明の飢饉と1732年の享保の飢饉

 江戸時代の三大飢饉は、享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉です。1782年に始まる天明の飢饉は1787年まで続き、特にひどかったのは1783年です。冷害や、浅間山の噴火による降灰などが影響しました。

 1732年の享保の飢饉は、イナゴやウンカなどの虫害が原因で、西日本で飢饉になりました。この結果、江戸の米価が急騰し、1733年には享保の打ち壊しが起きました。

1772年の明和の大火

 明暦の大火(1657年)、文化の大火(1806年)と共に江戸の三大大火の一つとされる明和の大火が4月1日に起きました。目黒行人坂から出火したため、行人坂の火事とも言われます。麻布、芝、郭内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草、千住など、江戸の三分の一が焼失しました。

1662年の寛文近江・若狭地震

 6月16日に近江国で起きた地震で、若狭湾沿岸の日向断層と琵琶湖西岸の花折断層北部が相次いで2つの地震を起こしたようです。琵琶湖西岸地域や若狭国で甚大な被害となり、火災、土砂崩れ、地盤隆起、液状化などが発生しました。死者は700~900人で、倒壊家屋も4,000~4,800棟に上るようです。ちなみに、花折断層の南部は、1500~2500年にわたって活動が認められないので、今後の地震発生が心配されています。

762年の美濃・飛騨・信濃の地震

 6月9日に美濃・飛騨・信濃で地震があったとの記述が続日本紀に残されています。第一級の活断層である糸魚川―静岡構造線断層帯が活動したようです。これ以降、糸魚川―静岡構造線断層帯は1260年にわたって活動していないため、地震調査研究推進本部は、M8程度の地震が今後30年間の間に14%の確率で発生すると長期評価しています。これは日本国内の活断層の中で最も高い確率です。十分な注意が必要です。

 昨年末には、日本海溝・千島海溝沿いの地震に対する被害想定結果が発表されました。南海トラフ地震や首都直下地震など、大規模地震への備えも忘れないでおきたいと思います。新しい一年が、災いの少ない年であることを期待しつつ、気を引き締めて対策を進めたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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