愛はどこまで病を克服するのか? 映画『ザ・レストレス』
愛と病、というのは永遠のテーマであるらしい。愛のある幸せな生活に突然、何の前触れなく襲ってくる病。病の存在は、愛する二人の生活に何を起こすのか?――。
■病で蝕まれる愛など愛ではない、か?
原則としては、愛は病を克服すべきだろう、と思う。
「健康な時も病気の時も、愛し合うことを誓いますか?」と、教会での結婚式では聞かれる。これにイエスと答えないと夫婦と認められないわけで、“病で蝕まれる愛など愛ではない”という考え方は広く浸透している。
私も病気になったからといって、妻にポイッと捨てられたくない、そんなのは愛ではない、と強く言いたい。
が、これは原則であって例外もある。
例えば、同じ昨年のサン・セバスティアン映画祭で見た『Vortex』では、その例外が描かれていた(『Vortex』の評はここ)。
アルツハイマーが愛の記憶を奪い去ってしまい、相手はまるで愛がなくなったかのような振る舞いをする。これは病気のせいで彼女のせいではない、と自分を納得させて愛の生活を続けようとする。
が、それには当然、限界というものがある。
■勝ったり、負けたりするのも愛
愛がなくなったかのように(あるいは、本当にすでに愛は頭の中から失われている?)振る舞う人を愛し続けることは難しい。まるで自分を嫌っているかのように振る舞う人に微笑み続けることは難しい。病のせいだとわかっていても、相手への愛情がすり減っていってしまい、憎しみさえ抱いてしまう自分に気が付く、なんてことはあるだろう。
愛が病を克服できることも克服できないこともある。それがリアルだろう。
『ザ・レストレス』の主人公が抱える問題は、タイトルの2つの意味がそのまま語っている。
夫の病によって彼女には「休息がない。気が休まる時がない」。そして、病によって夫は「落ち着きがない」。
男はエネルギッシュで情熱的で感情的で衝動的で突発的で予測不可能で常識に縛られず、時には反社会的でさえある。例えば、みんなのしているマスクなどしたくない、という人である。職業は芸術家なのだが、芸術家らしく同調圧力なんて関係ない、という自由人である。
対して、女は妻であり母であり、さらに看護婦でなくてはならない。
男と女の行動パターンがよく表れた予告編↓
2人の間にバランスが取れていない。どうみても女の方に負担過多である。女には役割があり、男には役割がない。女はいくつもの顔を使い分けなくてはならないのに男は素のままである。
■病気だからあるモラル的拘束と希望
男は時に粗暴で我がままで無責任で、子供の扱いも荒い。で、これがもともとそういう性格の男だったならとっとと離婚すればいいわけだが、病気だからこそ、そういうわけにもいかない。
一つはモラルの問題。病んだからといって捨てるのは道徳に反する。
もう一つは希望の問題。病気だからこそいつか治るかもしれない。ロマンチックで行動的で情熱のある男が、我慢していればある日帰ってくるかもしれないのだ。
愛が病をどこまで克服できるか?には、愛の形も関わってくる。
男と女だけの関係なのか、男と女と子供の関係なのかで、愛の耐性というものが当然、変わってくる。子供の誕生は、子供のため、という新しい視点の誕生である。
単純に「子はかすがい」とは言い切れない。「子供のために……」は別れない理由にも、別れる理由にもなり得るからだ。
愛の強さを問うものであって、付き合い始めたばかりの人にも、付き合い始めた頃の気持ちを忘れかけている、という人にも向いている。日本でもヒットする種類の作品だと思う。ぜひ公開を期待したい。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。