自らが天下を取れないことを悟り、自害して子孫に託した武将とは?
すべての武将が天下を取るために戦ったわけではないが、自分にはそれが無理だと悟り、自害して子孫に託したのが足利家時である。その真偽も含めて、経緯などをたどることにしよう。
室町幕府を開いた足利尊氏は、清和源氏の流れを汲む。その祖は、源義家(1039~1106)の孫の義康で、下野国足利荘(栃木県足利市)に本拠を定め、足利を姓とした。なお、藤原氏の流れを汲む足利氏もいるので、注意が必要である。
義兼(義康の孫)は源頼朝に従って各地を転戦し、鎌倉幕府の成立に大きく寄与した。以後、足利氏は執権の北条氏と姻戚関係を結び、鎌倉幕府で重用された。上総・三河の両国の守護を務めたのは、その証といえるであろう。細川、畠山、斯波などは、足利氏の一族である。
家時は頼氏の子で、尊氏の祖父でもある。とはいえ、その影は薄く、生年ですら諸説ある。弘安5年(1282)、家時は若くして伊予守に補任されたので、幕府から厚遇されていたのは、ほぼ間違いないようである。
弘安7年(1284)6月25日、家時は自害した(法号:報国寺殿義忍)。墓は、報国寺(神奈川県鎌倉市)にある。ところが、家時が自害した理由は、以下に述べるような話が伝わっている。
足利氏の先祖である源義家は「わ(我)が七代の孫にわれ(我)生まれか(変)わりて天下を取るべし」という置文を残したという。非常にドラマチックな内容だ。
義家から七代目の子孫こそが家時だった。家時が生きた13世紀中後半は、執権北条氏の時代だったので、とても天下を取れるような状況ではなかった。つまり、義家の置文の内容が実現する可能性は乏しかった。
そこで、大いに落胆した家時は、「わ(我)が命を縮めて、三代のうちに天下を取らしめ給え」と祈願して自害して果てたという。以上の話は、今川了俊の『難太平記』に書かれている。同書が成立したのは、応永9年(1402)のことである。
この逸話に関しては、真偽をめぐって論争となった。家時の置文があったのは事実であるが、内容が「三代のうちに天下を取」れというものだったのかは疑問視されている。
室町幕府は正当性を高めるべく、源氏の嫡流が足利氏であること広めた。したがって、家時の置文もその一つと考えられてり、今となって『難太平記』の説はほとんど支持されていないといえよう。
主要参考文献
細川重男「【後醍醐と尊氏の関係】4 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」(『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社歴史新書y、2016年)。