東日本大震災は大困難で大ピンチ。それをチャンスに換えた「RSテクノロジーズ」の経験(上)
東日本大震災が起きてからすでに13年が経つ。その後も熊本地震などの多くの災害があり、今年に入ってすぐには能登半島地震が発生し、現在もその復旧活動等が続いている。
それらの災害で亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、これまでそして現在も被害等に遭われた方々や地域のできるだけ早期の回復を祈念しております。またその回復や復旧等にご尽力されている多くの方々への感謝と敬意を表したいと思います。
筆者は、東日本大震災の際には、首都圏の被災地域に住んでいたので、上下水道の停止、仮設トイレ使用、電力使用制限対象、コミュニテイの復旧活動など若干の被災経験もした。また震災後、石巻等の現地訪問、原発事故後の福島現地視察等(注1)も行ったが、その時のさまざまな経験や印象が今も鮮明かつ克明に記憶に残っている。
その震災が起きた日がまためぐってきた。
筆者は、その震災で直接被害に遭われた方々にとっては思い出したくないことであるかもしれないが、あの出来事およびその後のさまざまな出来事は、日本が社会的な経験や知見として記憶し、今後に活かしていくべきだと考えている。
また筆者は、株式会社RSテクノロジーズ(以下、RST社)(注2)という再生ウェーハで世界トップシェアを占め、さらにプライムウェーハや半導体関連消耗部材の製造販売などを行っている企業に現在関わっている。その関連で、同社の始まりが、実は東日本大震災と大きく関わっていることを知った。
そこで、RST社取締役の遠藤智さんに、同社のはじまりの状況等について、その震災との関連で伺う機会があった。そこから得られた内容は、震災時における企業や経営側の役割などを考える情報や知見にもなると考えられる。そこで、本記事ではインタビュー形式でその情報を共有していくことにした。
鈴木(以下、S):遠藤智さん、本日はよろしくお願いします。まず、遠藤さんのご経歴とRST社との関係等について教えてください。
遠藤智さん(以下、遠藤さん):よろしくお願いします。私は、岩手県にある独立行政法人 国立高等専門学校機構一関工業高等専門学校(一関高専)で、化学工学について学びました。そこで、近隣である宮城県周辺で、自分が学んだことを活かすことのできる就職をしたいと考えていました。
高専の指導教官(当時)から宮城県の三本木に工場がある化学系の企業を紹介され、1991年に同社に入社しました。配属された三本木工場は再生ウェーハ(注3)が花形で、そこで自分が学んだ化学の知識を役立てることができたわけです。
私は、同社では、さまざまな取り組みを行いましたが、再生ウェーハにおける洗浄技術や銅の不純物の除去などで、高専で学んだ知見を活かすことができ、その後、再生ウェーハ部門の係長、課長となり、現場を管理する立場になっていました。
またウェーハは、5、6インチが、8インチ、2000年になると12インチのサイズになっていたのですが、私は、その試作ラインの責任者(2000年)、量産化工場の立ち上げ(2001年)、同社三本木工場の12インチ第2工場(2005年)や12インチ第3工場(2008年)の設立にも関わるなど、量産化および生産の責任者をしていました。
S:ご説明ありがとうございます。遠藤さんが、前職で再生ウェーハ事業に深く関わっていたことがよくわかりました。そして、そんな時に、その順調だった事業を揺るがすようなことが起きたのですね。
遠藤さん:はい、そんな時にリーマン・ショック(注4)が起きたのです。お客様となる半導体工場各社の稼働率が急激に落ち込み、再生ウェーハの受注も大きく落ち込みました。そのため、2008年に立ち上げた12インチ第3工場についても、その影響で量産運転が出来ない状況にありました。
別のいい方をすると、リーマン・ショックが起きる直前の時期は、再生ウェーハ事業のピークで、500名を超える人員が再生事業に携わっておりました。
再生ウェーハは、一般的には景気の変動の波はあまり受けないのですが、リーマン・ショックでは大打撃を受けたのです。その結果、会社は再生ウェーハ事業から撤退する決断をし、2010年8月31日に年内に事業から撤退する発表をしました。
S:それは大変でしたね。そのような状況で、遠藤さんの立場や役割はどうだったのですか。
遠藤さん:そんなことで、再生ウェーハ事業を止めるために、人員整理をはじめとする社内整理をすることになったのです。私は、当時再生ウェーハ部門の課長でしたし、生産自体は12月まで残るので、早期退社する方、生産終了まで残る方、事業終了後も会社に残る方を見極め、さまざまなことを配慮しながら、人員の整理対応などをしていました。先にも申し上げたように2008年時には約500名の従業員がいたのですが、2010年8月にはすでに約260名にまで減らしていました。
顧客によっては、ぎりぎりまで再生ウェーハを供給してほしいという意見もありました。また私は、部下の方々にも愛着がありましたし、会社に残りたい方や製造終了直前まで勤務したい方などさまざまな方々がいた中で人員整理をしていました。
他方、再生ウェーハの製造で使われていた各種設備の売却も進める必要がありました。
そんななか、当時の株式会社永輝商事の社長で現在のRST社社長の方永義さん(注5)から、当初は別会社の仲介者(その後は自社で購入をすることになったのですが)としてアプローチがあったのです。
私は、2010年10月に、方社長にお会いし、三本木工場を案内しました。
方社長は若くて、裏がなく、やりたいという意欲も強く感じました。そこで、私は、方社長に、再生ウェーハ事業をぜひやってほしいということと、もしやる場合、できるだけ少しでも今いる人員を雇ってほしいということを期待していました。
最終的には、2010年末に方社長がウェーハ再生設備を購入し、土地と建屋を賃貸する形で再生ウェーハ事業を継続することで、前社との契約が行われました。
そして、その契約締結後になってようやくに、それ以前にもできることはしていたが、まだ処遇が決まっていない人材などを集め始められるようになったわけです。
S:そうだったのですね。非常に厳しい状況における綱渡り状態でしたね。それでは、RST社は、装置を引き取ったけれども、事業継承・事業承継(注6)ではなく、ある意味新規事業を立ち上げて、創業されたと考えるべきですね。RST社は、どのような形で開始されたのですか。
遠藤さん: 先に申し上げたように再生ウェーハ事業関連の人員を整理してきた経緯もあり、RST社は、年が明けた2011年1月5日から、53名体制でスタートする形になりました。
また私は、再生ウェーハ事業にずっと関わってきていたので、それをなくしたくないという強い思いがありました。そして前職で人員整理などをしていたので、その対象者になった仲間を裏切れないという思いと、前社に残ることには後ろめたさもあったので、RST社に移籍することに決めたのです。
他方で、RST社は、事業承継ではないために、顧客情報や製品情報を引き継ぐことをせず、事業をスタートさせました。その後、顧客の承認を得ながら、また少しずつそれらの情報を集めていきました。また、前職での繋がりがあった人達と連絡を取り、人材を集めたりしていました。
私個人としては、当時のRST社の工場長を任されていたのですが、これまで申し上げてきたように、やや気取っていえば、従業員が幸せになってほしいと考えていましたが、こんなに厳しくかつ今後どうなるかわからないなか、みんなよくついてきてくれたと思います。3月11日までには80名弱ぐらいにはなっていたと思います。
ただ、当時は立ち上げ当初で、お金がなかったのです。再生ウェーハ事業で必要な清浄度が極めて高い部屋であるクリーンルームの運営・維持には、電気代や重油代が必要ですが、特にその時は冬で非常にお金がかかりました。そこで、当時の本部長に直談判して、お金を出してもらったりしていました。またRST社は、飽くまで「新しい企業」なので、当時は与信もなく、電話やFAXを開設するのも一苦労していたのです。
こんな感じで、本当に必死で、何とか受注を得て、売り上げが立ってきていたのです。
S:非常に厳しいなか、何とかなる状態にもっていっていたのですね。そんななか、さらなる試練ともいうべきことが起こるのですね。
遠藤さん:そうです。そんな状態で、あの3月11日の東日本大震災を迎えたのです。
その時は工事関係者と打ち合わせをしていました。私は、大きな揺れのなか、これまで何とかしてきたのにこんなことが起きてしまい、「この会社はもうダメだ」と心底思いました。
実際、この地震で、工場のインフラ設備などにも当然かなりの被害があり、損害金額も立ち上げ期の企業にとっては、非常に大きな負担となりました。しかも社員全員が、家族や生活があり、困難と重い気持ちを抱えた被災者たちだったのです。
でも、どんなに嘆いていても、生活やビジネスなどは待ってくれません。私たちは、まず従業員の安否確認を行い、3月20日ごろからは何とか工場を少しでも稼働できるようにしたいと考えていました。しかし、当時、食料や水の入手は困難で、電気も通じていませんでした。被災地域は車社会でしたが、ガソリンも入手が非常に難しかった。
…以下、次号(下)につづく…
遠藤智(えんどう・さとる)氏のプロフィール
株式会社RSテクノロジーズ取締役製造部長
国立一関工業高等専門学校化学工学科卒業。化学系企業を経て、2011年株式会社RSテクノロジーズ入社。同社製造部長を経て、現在取締役製造部長。再生シリコンウェハーの製造に一貫して関わってきている。趣味は、釣りや音楽鑑賞。
(注1)筆者は、同震災の際に生じた福島原発事故のその真相究明のために設立された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」の事務局の設立前および設立後の活動や動きにも関わった。その関係で、当時の除染地域や被災者の仮設住宅を訪問し、現地の状況等を知る機会があった。そのことに関しては、次の記事等を参照のこと。
・「国会事故調に関する私的メモを公表する…日本の政治・政策インフラの向上のために」(鈴木崇弘、Yahoo!ニュース、2021年3月11日)
(注2)なお、RST社については、次の記事なども参照のこと。
・「RE Technologies 実は高収益ね再生ウェーハ事業 新型蓄電池向けの電解液も期待(File 4)」(遠藤智、日経マネー、2024年5月号)
・「1兆円の夢に挑む。RS Technologiesの急成長を続けるための戦略とは」(久岡凛穂、Net Money powered by ZUU online、2024年3月4日、2023年7月号 )
・「「顧客の声×技術力」が日本の製造業を必ず復活させる 方永義」(The 21)
(注3)再生ウェーハとは、使用済みであるダミーウェーハを研磨加工等により繰り返し使えるウェーハにしたもので、主に設備の確認やテスト用に使用される。半導体デバイスメーカーの使用済のテストウェーハやモニターウェーハを回収して、それを再生技術によって新品テストウェーハ同等の品質の状態に戻すことによって、複数回使用を可能にするのである。
(注4)リーマン・ショックとは、米国の大手証券会社・投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻(2008年9月15日)が引き金となって起きた世界的な金融危機および世界同時不況の名称である。
(注5)方永義(ほう・ながよし)さんの略歴は、次のとおり。
1970年生まれ。中国・福建省出身。経営学博士。1999年永輝商事設立。2006年同社社長。2010年株式会社RSテクノロジーズ(RST社)を設立し、社長就任。2015年マザーズ、2016年東証一部(現在は東証プライム)上場を果たす。代表を務める中国連結子会社・有研半導体シリコン材料株式会社「GRITEK」が2022年上海証券取引所科創板市場で株式上場。高校卒業後に来日し、2014年日本国籍取得。「半導体事業」の他、ファンドや貿易、ホテル、IT事業、農業等様々な業界の投資を国内外で経験。「日本のものづくりは世界一」という信条の元、それを世界に広めていくため、世界中を飛び回っている。
(注6)事業承継と事業継承については、次の説明を参照のこと。
「『承継(しょうけい)』と『継承(けいしょう)』は似て非なる言葉です。前者は先代から『地位や精神、身分、仕事、事業を受け継ぐ』という意味があり、後者は先代から『義務や財産、権利を受け継ぐ』ことを意味します。
どちらも『受け継ぐ』という点では共通しますが、『承継』は先代が守ってきた形のない抽象的なもの・精神的な意味をもつものを受け継ぐといった意味合いの強い言葉です。対して『継承』は、先代や先任者が所有していた形あるもの・具体的なものを受け継ぐ意味合いが強く、それぞれ受け継ぐものが異なるため使い分けが必要といえます。
…略…
『前経営者から会社の経営理念やビジョンを受け継ぐ』といった場合には事業承継を、『先代経営者のもつ会社の経営権などを引き継ぎ、経営を担っていく』といった場合には事業継承を用いるのが適切ですが、厳格な定めなどがあるわけではなく、どちらを使用しても意味が通るため基本的に間違いではありません。」(出典:「事業承継と事業継承の違いとは?正しい意味や使い分けを解説」M&Aマガジン(日本M&AセンターHP)更新日: 2022年4月18日)