将棋のタイトル戦番勝負では、第1局は「挑戦者先手」でもよさそうなのに、なぜ振り駒をするのか、という話
将棋のタイトル戦では第1局が始まる前に、振り駒をして先後を決めます。
現在の作法では、畳の上に白布を敷き、振り駒をする人(多くの場合は記録係)がタイトル保持者側の歩を5枚取り、手の中でよく振って、白布の上にまきます。
表の「歩」が多く出ればタイトル保持者、裏の「と」が多く出れば挑戦者が、第1局の先手となります。
以後、第2局から先後は交互に替わります。
ところで、観戦をする側からはしばしば、こんな声も聞かれます。
「振り駒はしなくて、第1局は『挑戦者先手』と決めておいてもよくない?」
これはごく自然な意見ともいえます。将棋界の古くからの慣例では、ハンディなしの平手(ひらて)を指す場合、上位者の側が後手を持ってきたからです。
しかし現行のタイトル戦番勝負で最も古い、1940年の第2期名人戦七番勝負では、振り駒がおこなわれました。
実は運営側は最初、古くからの慣例に従って、第1局は挑戦者先手とする予定でした。しかし反対をした人がいたために、実現しなかったのです。
その反対した人とは、ほかでもない、挑戦者の土居市太郎八段(1887-1973)でした。
時代と背景
江戸時代の昔から、将棋界の第一人者は「名人」と呼ばれてきました。かつての名人は終身制で、前代の名人が亡くなるまでは、当代の第一人者がその跡を継ぐことは、原則的にはできませんでした。
1921年(大正10年)1月。小野五平12世名人が89歳(満年齢、以後同様)で亡くなります。次の名人の候補としては、関根金次郎八段(53歳)、阪田三吉八段(50歳)、土居市太郎八段(33歳)などの名が上がりました。関根から見て、阪田はライバルで、土居は一番弟子にあたります。当事者や有力者たちによる折衝の結果、年長者で人望もあり、実績十分の関根が名人に就くことが決まりました。
1935年(昭和10年)。関根は満67歳となる少し前に勇退を表明。次の名人は近代的な実力制名人戦によって決められることになりました。
関根の門下からは土居八段(47歳)、金易二郎八段(44歳)、花田長太郎八段(37歳)、木村義雄八段(32歳)といった、当時のトップクラスが輩出されていました。
その中で土居は、これまでの慣例の上では、次期名人に選ばれるのにおかしくないほどの実績がありました。実力制名人戦が始まると、どちらかといえば損をする立場です。しかし土居はいさぎよく名人戦に賛成し、参加することを決めます。
1935年に始まった第1期名人戦には八段の棋士9人が参加。「名人決定特別戦」というリーグ戦、および他棋戦の成績によって、名人の座が争われました。
2年にも渡った戦いの末、1937年、木村八段が花田八段を振り切って第1位の成績を挙げます。そして1938年2月、新名人の座に就きました。
第2期名人戦からは、名人に挑戦者が七番勝負でいどむ、現行の方式となりました。そして「挑戦者決定八段リーグ」において、13戦全勝というおそるべき成績で挑戦権を勝ち取ったのが、五十代を迎えていた土居八段でした。
土居八段、振り駒を強く主張
もし第2期名人戦の挑戦者を決めるリーグが始まる前、参加者全員が納得した上で「七番勝負の第1局は挑戦者を先手とする」という規定が定められていれば、特に問題もなく受け入れられた可能性は高そうです。
そして現在に至るまで「タイトル戦の第1局は挑戦者先手」という慣例が続いていたのかもしれません。
このとき、将棋大成会(現在の日本将棋連盟の前身)の幹事長として運営の中心となっていたのは、金子金五郎八段(38歳)でした。金子八段は「序盤の金子、中盤の木村、終盤の花田」と並び称され、名人位をもうかがえる立場にあった、当時のトップクラスの一人でした。また金子八段は、土居八段の弟子でもありました。
名人戦を創設し、主催していたのは東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)でした。大成会との交渉は、黒崎貞治郎記者(1903-75)が担当していました。
名人位決定七番勝負の先後はどう決めるか。この頃のことを金子八段は著書『勝負に生きる : 名人戦私記』(1959年刊)に書き残しています。
ミスといえばミスなのかもしれません。しかし運営側もおそらく、その点が特に問題になるとも思っていなかったのでしょう。
リーグ戦の結果、1940年4月末に開幕する第2期名人位決定七番勝負は、木村名人(35歳)に、土居八段(52歳)が挑む構図となりました。
七番勝負が始まる前、黒崎記者は、第1局は木村名人を後手番としてほしいという申し入れをします。そして金子八段は特に誰にも相談することなく、大成会側の責任者としてその申し入れを了承しました。
金子八段はのちに「うかつ」「軽率な判断」だったと悔やむことになります。というのは師匠でもある土居八段から、強烈に反対されることになったからです。
第2局以降は、先後は交互に変わっていきます。現在は最終第7局に至った場合には、改めて振り駒がおこなわれます。しかしこのときは、最終第7局まで進んだ際には、そこで振り駒をする規定もなかった。つまり第1局で挑戦者が先手ならば、第7局もまた挑戦者が先手。つまり土居八段にとっては、ほんの少し有利になります。そうした点なども、土居八段にとってはむしろ、気に入らないところだったのでしょう。
土居八段は木村新名人が台頭してくるまでは、実力的に第一人者でした。当然プライドもあったでしょう。もちろん挑戦者と名人とでは立場は違います。しかし対局に臨む上では、あくまでも対等の関係を望み、その上で強硬に振り駒を主張しました。
金子八段は深く反省し、結局、土居八段の主張は通りました。そして名人位決定七番勝負では第1局が始まる前に、振り駒によって先後を決めることが、規約に定められました。
以後は名人戦だけでなく、戦後、次々に新設されたタイトル戦においても、番勝負が始まる前には、振り駒がおこなわれています。
第2期名人戦指始式
第2期名人戦第1局では指始式(さしはじめしき)がおこなわれました。文士の里見弴(1888-1983)が「拝見記」を担当し、当時の模様を書き残しています。
このとき振り駒をしたのは、木村名人、土居挑戦者の師匠である関根金次郎13世名人でした。
関根13世名人が5枚の歩を振った結果、裏の「と」が多く出ました。結局、先手は土居八段と決まったわけです。しかし振り駒を経たことが、土居八段にとっては大きな意味がありました。
振り駒のあとで、両対局者は駒を並べました。いよいよ対局が始まります。
「土居氏、愉しげに、盤面を見おろすこと一分たらず」
そう里見弴は記しています。その短い時間のうちに、土居八段の胸の内では、万感の思いがよぎったのかもしれません。
先手番の土居八段は初手、角筋をあけました。その一手こそが現在にまで続く名人戦七番勝負、タイトル戦番勝負における、最初の一手となりました。