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意外にせこくてドケチだった。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大和郡山城。(写真:イメージマート)

 円安、インフレに上がらない給料。もはや倹約は常識となった。豊臣秀吉の弟の秀長は、せこかったといわれている。あまり知られていないようなので、取り上げて解説することにしよう。

 天文9年(1540)、豊臣秀長は誕生した。兄の秀吉よりも3歳年下である。かつて、秀長の父は秀吉と異なるといわれたこともあったが、今は同じという見解がある。

 秀長は性格が温厚篤実で仁義も厚く、秀吉をよく支えたという。また、非常に度量が大きく、秀吉の性格的な欠点をよく補った。秀長は秀吉よりも先に亡くなったが、仮に長生きしていれば、豊臣政権は長く続いたのではないかといわれているほどだ。

 豊後の大友宗麟が秀吉に面会するため、大坂城を来訪した。その際、秀吉は宗麟の手を取って、「表向きのことは秀長に、内向きのことは千利休に相談してほしい」と述べたという。いかに秀吉が秀長に厚い信頼を寄せていたのかを物語るエピソードである。

 ところで、秀長には、非常にセコイ一面があった。秀長は紀伊雑賀(和歌山市)の代官・吉川平介に対して、大坂で材木を売るよう命じた。しかし、あろうことか秀長は、その代金を着服したのである。

 秀吉は一報を耳にして激怒し、吉川平介の処刑を命じた。加えて、秀長の責任を重く見て、翌年年初の挨拶を拒否し、会おうとしなかったのである。ただ、秀長の着服の意図は、詳しくわからない。

 また、天正14年(1586)から翌年にかけて、秀吉は九州征伐(島津氏征伐)を敢行し、秀長も出陣した。その際、秀長が出陣した諸大名に割高な兵糧を売りつけようとし、秀吉から注意されたという逸話もある。

 天正19年(1591)1月、秀長は亡くなった。秀長の死後、居城の大和郡山城(奈良県大和郡山市)には、金子が56,000枚も残されていたという。銀子も同様にたくさん残されていた。秀長は、かなり蓄財に励んでいた模様である。

 とはいえ、秀長は材木や兵糧の件を見る限り、倹約家というよりもせこかったのかもしれない。概して金持ちはケチだというが、秀長は生まれが貧しかったので、せこく貯めこんだ可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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