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「切り裂きジャック」の正体が明らかに?

石田雅彦科学ジャーナリスト
事件のあったロンドン・ホワイトチャペル地区の南にある「切り裂きジャック博物館」(写真:ロイター/アフロ)

 ヴィクトリア朝時代のロンドンを震撼させた残虐な連続殺人事件があった。いわゆる「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」による犯行とされ、犯人が捕まらずに迷宮入りした古典的な事件だが、最新の遺伝子解析技術により犯人の実像に迫りつつあるようだ。

世紀末を象徴する連続殺人事件

 19世紀の英国は世界中に植民地や支配地を広げ、産業革命により技術的にも高度に発展した時代だ。ヴィクトリア女王(在位1837〜1901)の治世でもあり、ヴィクトリア朝時代とも呼ばれる。

 ヴィクトリア朝時代は大きく、産業革命により資本を蓄積した前期、科学技術が発達して世界中に版図を広げた中期、そして貧富の差が深刻になって社会が不安定化した後期に分けられる。後期には貧困層や労働者の間に社会主義が広まり、ロンドンのトラファルガー広場ではデモ隊と警官隊が衝突する流血事件もあった。

 1887年、ロンドンの貧困層が集まる狭い地区で売春婦が連続して殺害される事件が起きる。わかっているだけで少なくとも5人が犠牲になり、犯人は「切り裂きジャック」と呼ばれ、マスメディアが事件を解決できない警察や政府への批判キャンペーンを展開したこともあり、この事件は世界中に知られるようになった。

 一連の犯行は、ロンドンの東に位置するホワイトチャペル地区で起きた。当時のこの地区は、アイルランドからの移民やホームレスの女性が集まる場所としても知られ、常に1000人ほどの女性がベンチで寝泊まりするような状態だったという(※1)。

 犯人はその中の売春婦を狙った可能性が高い。犯行は残忍で被害者の喉を鋭利な刃物で切り裂き、少なくとも3人の被害者はその後、腹部を開かれて内臓が摘出されていた。当時のホワイトチャペル地区周辺には食肉処理場が多く存在したが、臓器を取り出す手際から医学関係者ではないかという見立ても出ている(※2)。

 スコットランドヤードは犯人検挙に全力を挙げたが、結局、100人以上の容疑者の中から犯人を見つけることができなかった。130年経った今でも、世紀末ロンドンで起きたシリアルキラー(Serial Killer、一定の間隔で複数の殺人を繰り返す殺人犯)による未解決事件として話題になり続けている。

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ロンドンのホワイトチャペル地区。大きな地図の黒い●が犯行地点。「切り裂きジャック」が犯行におよんだのは、ごく狭いエリアだったことがわかる。Via:William G. Eckert, "The Whitechapel murders- The case of Jack the Ripper." The American Journal of Forensic Medicine and Pathology, 1981に記載された地図にCharles Booth's London(Public Domain Mark1.0)の地図(右上)を合わせて筆者作成

 同じ犯人と思われる犯行が突如として終わったことで、おそらく犯人は何らかの理由で死亡したか他所へ移住したのではないかと考えられている。だが、切り裂きジャック事件があまりにも有名になり過ぎたため、エラリイ・クイーンの『恐怖の研究(A Study in Terror)』など、この事件をテーマにした数多くのフィクションが出たりして、その後の社会・文化にも少なからず影響を与えた。

犯人は女性か男性か

 切り裂きジャックについての科学的な研究は意外に少ない。100年以上も前の事件であり、ロンドンもその後の戦争や開発で大きく様変わりし、科学的な検証に耐えられる物証も限られているからだ。

 法医学の観点からDNAプロファイリングの技術でこの事件に挑んだのは、ペンや自動車のキーに残されたごくわずかな指紋からでもDNAのプロファイルができるという技術を開発(※3)したオーストラリアの研究者だ。この研究者は、切り裂きジャックが出したと思われる手紙に貼られた切手の唾液をDNAプロファイリングで分析し、その結果、犯人は女性の可能性があるという(※2)。

 切り裂きジャックの正体に科学的なプロファイリングで迫ろうとして有名なのは、小説家のパトリシア・コーンウェルだ。日本にも多くのファンを持つ世界的ベストセラー推理小説作家でもある彼女は、700万ドル(約7億1000万円)という巨費を投じて、現在も保全されている証拠品を調べた。

 その結果、当時の画家、ウォルター・シッカートが犯人の可能性があるという結論を出し、その過程や推理などを本にまとめて出版してもいる。ただ、コーンウェルが用いた物証に信頼性がなく、シッカートにはアリバイがあるかもしれないなど批判も多い。

 そんな中、ほぼ確実とされている物証からDNAプロファイリングし、犯人の性別、目や髪の色まで特定したとする論文が米国法医学会の学会誌に出た(※4)。

 英国のリバプール・ジョン・ムーア大学などの研究グループによる研究で、物証となったのは2枚のショールだ。ショールは、犯行現場から警察官が回収し、その後は警察博物館に保管されていたという。

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ショールは、約178×62センチと約90×30センチ、単色のものと花柄がついたものの2枚だ。大きなショールには4つ、小さなショールには3つの血痕とみられる汚れがある。Via:Jari Louhelainen, et al., "Forensic Investigation of a Shawl Linked to the “Jack the Ripper” Murders." Journal of Forensic Sciences, 2019

 研究グループは、ショールに残された血痕からミトコンドリアDNAとSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型、個人や集団の特徴を知ることができるDNAのごく部分的な変異)を調べた。

 DNAプロファイリングで重要なのは、時間経過とともに断片化して破壊されるDNA情報と人間を含む他の生物による汚染だ。これらについて慎重に分析を進めた結果、ショールに汚れを付けた人物は、褐色の目と髪の男性ということがわかったという。

 研究グループは、ショールには被害者の女性と犯人と思われるミトコンドリアDNAがあったと主張し、犯人女性説とコーンウェルのシッカート説を否定する。

 ショールは高価なものと推測され、おそらく貧しい売春婦の被害者が買うことはできず、当時の数少ない目撃証言の中には褐色の目の男性の存在があった。そして今回、研究グループが分析した手法は、同じような古い事件を掘り起こす可能性があるという。

※1:William G. Eckert, "The Whitechapel murders- The case of Jack the Ripper." The American Journal of Forensic Medicine and Pathology, Vol.2, No.1, 1981

※2:Andrew Knight, et al., "Was Jack the Ripper a Slaughterman? Human-Animal Violence and the World’s Most Infamous Serial Killer." Animals, Vol.7(4), 30, 2017

※3:Ian Findlay, et al., "DNA fingerprinting from single cells." nature, Vol.389, 555-556, 1997

※4:Jari Louhelainen, et al., "Forensic Investigation of a Shawl Linked to the “Jack the Ripper” Murders." Journal of Forensic Sciences, doi.org/10.1111/1556-4029.14038, 2019

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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