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医療ひっ迫でも五輪強行 菅首相の危険な賭け

高橋浩祐米外交・安全保障専門オンライン誌「ディプロマット」東京特派員
緊急事態宣言の5月末までの延長を決め、記者会見する菅首相=7日夜、首相官邸で(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

菅首相は5月7日夜の記者会見で、コロナ禍で開催が危ぶまれる東京五輪・パラリンピックについて、「感染対策を徹底することで、国民の命や健康を守り、安全安心の大会を実現する」と述べた。

感染対策の具体例としては、国際オリンピック委員会(IOC)による各国選手へのワクチン供与や、選手や大会関係者と一般国民が交わらないようにするいわゆる「バブル方式」の実施、そして、選手への毎日の検査実施を挙げた。

しかし、これで本当に国民の命や健康を守り、安全安心の大会を実現できるのだろうか。

筆者は官邸報道室による抽選に当たり、7日の記者会見に出席した。菅首相の会見を間近で見聞きし、いくつか気づいた点を記したい。

●菅首相の口から「医療提供体制」の言葉出ず

菅首相の会見で一番驚いたのが、五輪開催に当たって、ひっ迫する医療提供体制について何らの言及がなかったことだ。記者会見では「医療提供体制」や「医療提供」との言葉は菅首相の口からは出てこなかった。菅首相は意図的に、ひっ迫する医療提供体制について口にするのを避けたのだろうか。

しかし、医療提供体制は重要だ。

平昌冬季五輪組織委員会の医務専門委員を務めた韓国の新型コロナウイルス感染症専門家、タン・ヒョンギョン氏は筆者の取材に対し、東京五輪開催に当たり、「まずチェックすべき点は、東京での感染レベルや医療提供能力、さらには検査を含めた疫学的サーベイランス(調査監視)能力がどのような状況にあるかだ」と指摘する。

そして、「感染レベルがあまりに高かったり、病院や公衆衛生の能力があまりに低かったりする場合には、五輪を開催することは危険だ。それは、どれほど多くの非医薬品介入(ワクチンといった医薬品以外の公衆衛生上の対策)を実施しようとも危険だ」と述べる。

つまり、選手らが外部との接触を断つ「バブル方式」といった公衆衛生上の感染対策をいかに厳格に実施しようと、東京都の医療提供体制がひっ迫していては、五輪開催はリスキーだとタン氏は指摘している。

2018年2月の韓国平昌五輪組織委員会で医務専門委員を務めたミズメディ・ウィメンズ病院の内科医、タン・ヒョンギョン氏(2月3日放映の韓国国際放送アリランテレビの番組動画を筆者がキャプチャー)
2018年2月の韓国平昌五輪組織委員会で医務専門委員を務めたミズメディ・ウィメンズ病院の内科医、タン・ヒョンギョン氏(2月3日放映の韓国国際放送アリランテレビの番組動画を筆者がキャプチャー)

それはそうだろう。コロナの感染拡大が止まらずに、国民への医療提供がさらにひっ迫していれば、五輪選手への医療提供もおぼつかなくなるだろう。逆に、医療ひっ迫の中、五輪選手への医療を優先すれば、国民への医療提供がさらに厳しくなるだろう。

●東京の医療提供体制は既にひっ迫

問題は、現に東京の医療提供体制が既にひっ迫していることだ。5月6日に開催された東京都モニタリング会議資料では、東京の医療提供体制については、4段階の中で一番厳しい段階にある「体制がひっ迫していると思われる/通常の医療が大きく制限されていると思われる」と指摘されている。

これに対し、東京オリパラ大会中は、1日当たり最大で医師300人と看護師400人からなる医療従事者約1万人が必要と見込まれている。そして、9都道県の43会場に130カ所以上の医務室を設けるほか、大会指定病院としては都内約10カ所、都外約20カ所が予定されている。また、東京都の現在の検査件数が1万前後にもかかわらず、選手1万5000人とコーチら関係者に毎日検査を実施する方針でいる。

大会組織委員会は4月、大会期間中に看護師500人の確保を要請する文書を日本看護協会に送った。これに対し、コロナ患者の対応で忙殺される現場の看護師から大きな反発が広がっている。

ソウルにあるミズメディ・ウィメンズ病院の内科医を務めるタン氏は、「五輪大会の現場には、選手と大会関係者専用の診療所が設置され、必要な緊急医療サービスを彼らに提供する。しかし、込み入った複雑な医療サービスや、メディアやスポンサー関係者のためには、地域の病院を使わざるを得なくなる。スポーツに関連したけがのほか、不慮の事故による負傷、感染症、虫垂炎、心臓まひ、骨折といった医療問題が常に起きる」と述べる。五輪期間中には多様な医療ニーズが発生し、それに十分に備えなくてはいけなくなるとの指摘だ。

菅首相は、感染がさらに拡大し、東京の医療提供能力が現在の大阪や兵庫のようになっても、あくまで五輪開催を強行するのだろうか。国民の命より五輪が重いはずはない。感染拡大が止まらず、国民への医療提供体制が厳しい場合には、五輪中止をバッハIOC会長に要請すべきだろう。

●「ワクチンは100%効くものではない」

菅首相は会見で、「長引く感染対策の決め手となるのがワクチン」と述べ、自らの陣頭指揮でワクチン接種を加速していく方針を示した。確かに、国民へのワクチン接種を早めれば、集団免疫を獲得し、コロナ禍を一刻も早く終息させることができるだろう。

しかし、タン氏は「変異株が現実の脅威になっている。ワクチンは100%効くものではない。ワクチンは、ウイルス感染からすべてを守ってくれはしない」と指摘する。

そのうえで、タン氏は「私の最大の心配は、現在の診断法をくぐり抜ける新たな変異株が出現することだ。現在の検査で確認できない変異株が出現したらいったいどうなるのか。それは若い選手の間で無症状感染を起こし、感染リスクの高い脆弱な人々の間では、重病をきたす。さらに、選手らがそれらの変異株を世界中のそれぞれの母国に持ち帰ったらどうなるのか。カオス(大混乱)以外の何物でもない」と警鐘を鳴らした。

福島第一原発事故に象徴されるように、日本は過去に最悪のシナリオを想定せずに、大規模な被害に見舞われてきた痛い経験がある。タン氏の指摘するような新たな変異株の脅威を東京五輪でもしっかりと認識する必要があるだろう。

●五輪ありきでは政策判断を間違える

政府は昨年来、常に最初に「五輪ありき」で、五輪がコロナ対策の足かせになっている向きがある。多くの国民の目にも、政府が「何が何でも五輪強行」「感染拡大でも五輪強行」と映っているのではないか。

例えば、昨年4月の1回目の緊急事態宣言は、安倍前首相とバッハIOC会長が五輪開催の1年延長を合意してから、ようやく発令された。感染が広がる中、後手に回ったと批判された。

2回目の緊急事態宣言は今年3月、聖火リレー開始直前に解除された。

そして、今回の3回目の緊急事態宣言は当初、バッハ会長の来日前の5月11日に解除が設定された。バッハ訪日を意識しての先に「出口ありき」の様相だった。

緊急事態宣言発令にせよ、解除にせよ、あまりにも五輪関連の行事日程に縛られていないか。五輪開催を優先するあまり、感染対策が後手に回ることはなかったか。五輪を政権浮揚への追い風とし、その勢いで解散総選挙に持っていこうとの政治的思惑が筆者には透けて見える。

しかし、これは菅首相にとって、危険な賭けでもある。五輪ありきで、コロナ対策の政策判断を誤ったり、鈍らせたりすれば、それはより多くの国民の命が失われることになるからだ。

●人命より政治を優先させたモディ首相

その最たる例が感染大爆発に見舞われているインドのモディ首相だ。そもそもモディ首相は、昨年のコロナ第1波を抑え込んだとして自信に満ち溢れていた。そして、第2波の真っ只中に行われた4月の選挙で、与党候補を応援するために各地に出向き、多くの群衆を選挙集会に集めた。

さらに支持基盤であるヒンドゥー保守派に配慮して、ヒンドゥー教の聖地で行われた祭典「クンブ・メラ」で密の発生を防ぐなどのコロナ対策を怠った。このため、インドのコロナ禍は、人命より政治を優先させたモディ政権による人災だとの批判の声が上がっている。

インドのモディ首相
インドのモディ首相写真:代表撮影/ロイター/アフロ

菅首相も、五輪開催を通じて、かりに感染を大爆発させたならば、モディ首相同様、人命よりも政治的思惑を優先させたスーパースプレッダー(超感染拡散者)との汚名を免れなくなるかもしれない。

●五輪開催の意義

最後に、パンデミック禍での五輪開催の意義とは何なのか、改めて考えたい。本来、五輪は単なるスポーツ競技イベントではなく、世界の平和の祭典や祝典のはずだ。

しかし、世界の新規感染者数は10週連続、死者数も7週連続でそれぞれ増加中だ。今、祭り事をしている場合だろうか。

前述のモディ政権の失策もあり、感染爆発に見舞われるインドでは、1日当たり41万人を超える過去最多の新規感染者数が確認されている。ネパールやスリランカ、カンボジアなどでも日々過去最多の新規感染者数が報告されている。タイでは感染死者数が更新し続けている。

オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる」。オリンピック憲章はこううたう。

パンデミック禍で世界の多くの人々と国々が苦しみに見舞われる中、五輪を強行開催することは、このオリンピック精神に反すると筆者は考えている。今は国際協調で世界各国がコロナを終息させるという世界平和の構築を何よりも優先すべきで、世界平和の祝典をやっている場合ではないと思っている。日々、人々の苦しみを目にしているのに、いったい何を祝うのか。五輪を強行開催すれば、パンデミックという人類の重大な問題から私たちの関心や注意をそらすことにならないだろうか。

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米外交・安全保障専門オンライン誌「ディプロマット」東京特派員

英軍事週刊誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」前東京特派員。コリアタウンがある川崎市川崎区桜本の出身。令和元年度内閣府主催「世界青年の船」日本ナショナルリーダー。米ボルチモア市民栄誉賞受賞。ハフポスト日本版元編集長。元日経CNBCコメンテーター。1993年慶応大学経済学部卒、2004年米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクールとSIPA(国際公共政策大学院)を修了。朝日新聞やアジアタイムズ、ブルームバーグで記者を務める。NK NewsやNikkei Asia、Naval News、東洋経済、週刊文春、論座、英紙ガーディアン、シンガポール紙ストレーツ・タイムズ等に記事掲載。

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