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史上初の世界的スーパースター「サラ・ベルナール」展 没後100年を記念してパリのプティパレで開催

鈴木春恵パリ在住ジャーナリスト
展覧会の壁の一部(写真はすべて筆者撮影)

パリで今「サラ・ベルナール」展が開かれています。

サラ・ベルナール(1844ー1923)という人物のことをご存じでしょうか?

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの女優です。

けれども、何を隠そう、私自身その名前を聞くことはあっても、実際どんな人なのかあまり知りませんでした。

ところが、今回展覧会を巡ってみて、彼女の偉大さにすっかり圧倒されてしまいました。

※展覧会の様子はこちらの動画からもご覧いただけます。

彼女の人物像を表現するのにはたくさんの言葉を使わなくてはなりません。

「大女優」「芸術家たちのミューズ」「ショービジネスの先駆者」「インフルエンサー」「ファッションアイコン」「フランスのリュクスのアンバサダー」「アーティスト」「社会活動家」「エキセントリックにして奇想天外」…。

つまり彼女は驚くほど様々な顔を持った女性なのです。

この展覧会は絵画や彫刻作品の美しさを鑑賞するというよりもむしろ、一人の人間が意志と行動力でここまで壮大な人生を築き上げたことを知る展覧会、と言えると思います。

では、そこで具体的に何が見られるのでしょう?

写真史上貴重な作品とされるナダールが撮影したポートレイトに始まり、彼女の舞台衣装、写真、絵画、彼女の邸宅を飾っていた調度品、劇場の模型、アルフォンス・ミュシャによるポスターの数々、貴重な映像など、展覧会は実に多岐にわたる内容で構成されています。

ナダールが撮影したサラ・ベルナール。1859年頃のもの
ナダールが撮影したサラ・ベルナール。1859年頃のもの

ジョルジュ・クレランによるサラ・ベルナールの肖像画。1876年制作
ジョルジュ・クレランによるサラ・ベルナールの肖像画。1876年制作

ヴィクトル・ユーゴーの戯曲でスペインの王妃に扮したサラの写真。1872年頃
ヴィクトル・ユーゴーの戯曲でスペインの王妃に扮したサラの写真。1872年頃

上の写真で彼女が身につけていた王冠なども展示されている
上の写真で彼女が身につけていた王冠なども展示されている

まだ無名だったアルフォンス・ミュシャに依頼した公演のポスター。この成功がミュシャの名声を高めることになった
まだ無名だったアルフォンス・ミュシャに依頼した公演のポスター。この成功がミュシャの名声を高めることになった

同じくミュシャによるポスター(部分)
同じくミュシャによるポスター(部分)

「クレオパトラ」(1890年)の舞台衣装
「クレオパトラ」(1890年)の舞台衣装

総数400点余りの展示品によって私たちは知るのです。彼女はフランスの演劇界に名を残す大女優というだけでなく、世界をまたにかけて演劇興行を大成功させた一座の長でもあり、広告、メディアをいかに使うかという、現代では当たり前になっている重要性にいち早く気づき、それらを巧みに利用してどんどん知名度を高めていったことを。つまり、彼女は史上初の世界的なスターにしてインフルエンサーなのです。

今回の展覧会を案内してくれたプティ・パレの学芸員長、ステファニー・カンタルッチさんに、私はこう尋ねてみました。

「サラを現代の人物に喩えるとしたら誰?」

彼女の答えは、「キム・カーダシアン」。

私はてっきり、レディ・ガガとかマドンナというような答えが返ってくるかと思いましたが、それよりもさらに時代の最先端をゆくアメリカの超セレブリティの名前があがりました。ステファニーさんのその喩えは、スター性だけでなく、スキャンダルも丸ごと自己プロデュースの肥やしにしてゆくという面を含めてのものでしょう。

展覧会を企画したメンバーの一人、プティパレの学芸員長Stéphanie Cantarutti(ステファニー・カンタルッチ)さん
展覧会を企画したメンバーの一人、プティパレの学芸員長Stéphanie Cantarutti(ステファニー・カンタルッチ)さん

サラ・ベルナールの人生を伝説的なものにしているのが彼女の出自です。展覧会の冒頭に、当時のcourtisane(クーティザンヌ=高級娼婦)を登録した台帳が展示されていて、サラのページが開かれています。つまり彼女は高級娼婦でもあったのです。

彼女の母も叔母もやはり同じ職業で、サラの父親が誰なのかはわかりません。

しかも、サラが女優になるきっかけを作ったのが母親の上顧客の男性でした。サラの母の情人の一人に、時の皇帝ナポレオン3世の義弟にあたるモルニ公爵がいて、10代半ばのサラがコメディフランセーズに入ることを彼は勧めたのです。そうしてサラは演劇の道に進むことになるのですが、高級娼婦であることも厭いませんでした。

先のステファニーさんによれば、展示されている台帳には、彼女の元に誰が訪れ、いくら払ったのかも記載されていて、とある代議士はサラに4万フランを支払ったのだとか。コメディーフランセーズから得ていた彼女の月給が400フランだったと知れば、それがいかにうまみのある仕事だったのかがわかります。

パリ警視庁に保管されている高級娼婦を記録した台帳(1861ー1876年)。サラのページが開かれている
パリ警視庁に保管されている高級娼婦を記録した台帳(1861ー1876年)。サラのページが開かれている

娼婦というと、どうしても後ろ暗いイメージがつきまといますが、フランス語の「クーティザンヌ」にはもともと「宮廷の女性」という意味がありましたから、上流階級の文化を共有していた女性たちと言っても良いでしょう。

サラは生涯恋多き女性だったようですが、最愛の男性は20歳の時に産んだ息子。その父親が誰だったのかは謎のままですが、ベルギーの貴族という説もあるようです。

「彼女は確かにエキセントリックで常識外れの突飛な格好や行動をすることがありました。例えばコウモリのモチーフの帽子をかぶったり、棺桶のベッドに寝ていたり。けれどもそれをすることでどういう反応があるのかを彼女はよく知っていました」

と、ステファニーさんは語ります。

では、奇才のアーティストによくあるように、感性の振れ幅が大きすぎて、精神を病んでしまうようなことが、サラにはなかったのだろうかと気になります。けれども、ステファニーさんによると、そういったことはなかったようです。

「むしろ彼女は非常に仕事熱心な努力家。1日中芝居のことを考え、衣装の細部まで徹底的にこだわって何度も修正したり、照明の具合などあらゆるところに目を配っていました。ヴィクトル・ユーゴーやエドモン・ロスタンら作家たちとも親しい交流を持っていました」

そのように、インテリジェンスとマネージメント能力も持ち合わせていたからこそ、二つの劇場を統括したり、世界をまたにかけた100の単位の興行を成功することができたのでしょう。

アメリカ・テキサスで公演をした時の写真(1906年)
アメリカ・テキサスで公演をした時の写真(1906年)

彼女のことを、同時代の巨人たちはこう形容します。

「聖なる怪物」(ジャン・コクトー)

「黄金の声」(ヴィクトル・ユーゴー)

つまり、識者たちと同等レベルの会話ができる女性であり、彼女の存在が彼らの芸術に着想を与えもしたのです。

さらにいえば、彼女は女優であるだけでなく、じつは一流のアーティストでした。展示されている彼女自身が制作した絵画や彫刻作品を見れば、それは有名女優の趣味というレベルを遥かに超えていたことが一目瞭然。実際、万博などにも出品して賞を得たりしたくらいの腕前なのです。とはいえ、同時代のロダンは、彼女の作品を快く思わなかったようで、辛口の批評にもさらされた様子。それでも彼女は怯まず我が道をゆくのです。

彫刻作品の横に立つサラ・ベルナールの写真。1877年頃
彫刻作品の横に立つサラ・ベルナールの写真。1877年頃

1882年に結婚し、数ヶ月間一緒に暮らした夫ジャック・ダマラの彫像。89年に34歳の若さで亡くなった時にサラが製作したもので、現在はニューヨーク・メトロポリタンミュージアムの所蔵になっている
1882年に結婚し、数ヶ月間一緒に暮らした夫ジャック・ダマラの彫像。89年に34歳の若さで亡くなった時にサラが製作したもので、現在はニューヨーク・メトロポリタンミュージアムの所蔵になっている

彼女が特注した絵皿の模様が象徴的です。名前のイニシャルSとBに加えて「QUAND MEME」という文字が表されているのですが、これはフランス語で「それでも」とか「何があっても」というような意味。彼女が9歳の時から自分のモットーにしていた言葉なのだそうです。

生前の彼女の言葉が印象的です。

「死の前に私は伝説になった」

展覧会終盤で、私はその言葉に深く頷いてしまいました。生きながらにして伝説になったという表現が決して誇張でない証拠に、彼女の葬儀は、まるで英国女王のそれを思わせるほどの壮麗さ。フランスの大統領でもここまではいかないだろうと思わせる映像が、展覧会場に流れています。今からちょうど100年前、大女優の葬列に付き従う群衆が映し出されているのですが、それはまるで黒い大河のよう。市内中心部の教会からパリの東のペール=ラシェーズ墓地まで続いたのだそうです。

サラ・ベルナールのイニシャルとモットーがデザインされた皿
サラ・ベルナールのイニシャルとモットーがデザインされた皿

1923年3月26日、サラはパリの自宅で逝去(79歳)。3日後の29日に行われた葬儀の様子を伝える映像が会場に流れている
1923年3月26日、サラはパリの自宅で逝去(79歳)。3日後の29日に行われた葬儀の様子を伝える映像が会場に流れている

ちなみに、日本の思想家、中村天風がサラ・ベルナールの邸宅に居候していたというなんとも興味深い逸話があります。筆者の手元にある中村天風『運命を拓く』をあらためて開いてみると、前書きに確かにその記述がありました。

病に苦しみ、求道のために世界を巡っていたその途上、彼は紹介されて、サラ・ベルナールを訪ね、邸宅にしばらく滞在しました。著書の記述によれば、相当な年齢だと聞いていたのに、27、8歳にしか見えず、彼女の美しさと粋な喋り方に魅せられてしまったのだとか。そしてサラは彼に『カントの自叙伝』を読むように勧めたとも書かれています。その時、おそらくサラは60代後半だったはず。それなのに20代に見えたという彼女の桁外れの魅力が、こんなところからも伝わってくるようです。

展覧会では、サラ・ベルナールの演技の映像や「黄金の声」が聴けるイヤフォンもあるので、その魅力の一端によりリアルに迫ることも可能です。

会期は2023年8月27日まで。1900年のパリ万博のために建てられたプティパレという会場がまた、彼女の生涯に思いを馳せるにぴったりの場所です。

「サラ・ベルナール」展開催中のプティパレ美術館
「サラ・ベルナール」展開催中のプティパレ美術館

パリ在住ジャーナリスト

出版社できもの雑誌の編集にたずさわったのち、1998年渡仏。パリを基点に、フランスをはじめヨーロッパの風土、文化、暮らしをテーマに取材し、雑誌、インターネットメディアのほか、Youtubeチャンネル ( Paris Promenade)でも紹介している。

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