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諸行無常…峠の小集落に消えた木造駅舎の想い出 根室本線 上厚内信号場(北海道十勝郡浦幌町)

清水要鉄道ライター

十勝地方最東端の町・十勝郡浦幌町。役場のある浦幌市街がある町西部と厚内川が太平洋に注ぐ地点にある厚内集落とは険しい山地に隔てられて、とても同じ町内にあるとは思えない。浦幌駅と厚内駅の駅間は18.4キロメートルで、駅間には標高90.6メートルの険しい峠がある。この2つの駅の間には常豊、上厚内の二つの信号場があるが、このうち上厚内は平成29(2017)年3月4日までは旅客駅だった。今回はこの上厚内信号場を、現役時代の写真を交えて紹介しよう。

峠の信号場を特急「おおぞら」が通過していく
峠の信号場を特急「おおぞら」が通過していく

上厚内信号場の歴史は明治43(1910)年12月1日、上厚内信号所としてスタートした。厚内駅よりも川の上流にあったから「上厚内」としたのだろう。大正11(1922)年4月1日の「信号場」への名称変更を経て、乗客も扱う駅になったのは大正15(1926)年8月1日のことだ。以来、上厚内駅は90年に渡って営業を続けてきたが、利用者数の減少を理由に平成29(2017)年3月4日に信号場に格下げされた。元が信号場だったので、90年ぶりに信号場に戻ったとの見方もできるだろう。信号場となってからは列車の停車は無くなったが、今でも列車の行き違いが行われており、特急や貨物列車も速度を落として通過していく。

駅舎跡は更地に
駅舎跡は更地に

駅舎は廃止から一年半が経った平成30(2018)年9月10日から19日にかけて解体撤去された。駅舎跡は砂利敷きの更地となっている。ホームと跨線橋も撤去されたので、現役時代から変わっていないのは信号設備の機械室くらいなものだろう。

ほぼ同じ位置から現役時代の上厚内駅
ほぼ同じ位置から現役時代の上厚内駅

平成27(2015)年12月25日に撮影したほぼ同じ構図の写真と見比べてみよう。駅舎は集落よりも一段高い坂の上に建っていて、駅前の狭さゆえに正面から全体を写すのは難しかった。

駅や民家の消えた跡にコスモスが咲いていた
駅や民家の消えた跡にコスモスが咲いていた

上の写真とは逆側にも坂道があり、こちらの方が傾斜が少しきつい。駅前のソーラーパネルの設置されている土地は道路に囲まれてロータリーのようになっていたが、以前は畑で隅に農機具小屋があった。

駅舎だけでなく駅前の廃屋数軒も消えた
駅舎だけでなく駅前の廃屋数軒も消えた

駅の現役当時、駅前には廃屋が数軒連なっていて、人の気配は希薄ながらも駅前集落としての形は保たれていた。これらの廃屋も駅の廃止と前後して撤去され、現在も残るのは人が住んでいる2軒の民家だけである。駅からは見えないが、上厚内川の対岸にももう一軒あり、上厚内集落に居住するのは平成27(2015)年時点で3世帯5人のみだった。人口減少によって神社の維持も難しくなったことから、平成27(2015)年11月2日には駅裏手の上厚内神社が浦幌神社に合祀されて開拓期以来115年の歴史に幕を下ろしている。神社の創建は明治42(1909)~43(1910)年頃で、上厚内信号所の設置と同時期だった。この神社の合祀を報じた記事によれば、上厚内への入植が始まったのは明治42(1909)年頃。昭和44(1969)年には41戸が暮らしていた。

かつての駅前商店
かつての駅前商店

かつて駅前にあった廃屋のうち、駅前の坂道が集落の目抜き通りに突き当たるT字路にあったのがこの建物だ。「波佐商店」という商店で、かつてはここで切符を販売していたそうだ。平成27(2015)年時点では廃屋となって久しい様子で、駅の廃止と時を同じくして跡形もなく消失した。

上厚内小学校跡
上厚内小学校跡

駅も廃屋も消え、寂しくなった集落で、平成27(2015)年と変わらぬ姿を見せていたのが浦幌町立上厚内小学校の校舎だ。大正13(1924)年10月1日に開校し、昭和57(1982)年3月31日に半世紀の歴史の幕を下ろした。校舎は昭和38(1963)年に建て替えられたもので、閉校から40年が経った今でも綺麗に残っている。校庭には工事の現場事務所が設置されていた。

風格のあった木造駅舎
風格のあった木造駅舎

今は亡き上厚内駅の駅舎は建物財産標によれば昭和28(1953)年11月23日に建てられたもの。撮影時点で築62年だった。昭和20年代後半であればコンクリートの駅舎も盛んに建てられはじめていた時期であるが、小駅ではまだまだ木造駅舎も多かった。気候の厳しい北海道では木造駅舎が残っていたとしても保温のために扉や窓枠がアルミサッシ化されてしまうことが多いが、この駅では奇跡的に木製引き戸と木製窓枠が残っていた。昔ながらの駅の姿をここまで留めている駅は珍しく、文化財的価値も高かっただけに解体が惜しまれる。

便所
便所

駅舎の隣にはこれまた木造の古い便所が建っていた。建築は駅舎と同じ昭和28(1953)年11月23日。もちろん汲み取り式で、時間の止まったような便所だった。こちらも駅舎と同時に解体されて現存しない。

駅舎内
駅舎内

駅舎内も懐かしい雰囲気が漂っていた。無人化は昭和46(1971)年10月2日。窓口跡は板で塞がれていたが、小荷物を扱っていた「チッキ台」(上写真右の出っ張り)が残っていた。ベンチは4連のプラベンチで、駅寝対策に交換されたものだろう。駅ノートの記述によれば、この駅舎を宿にしていた旅人が何人かいたようだ。

駅ノートなど
駅ノートなど

切符を売っていた窓口跡には駅ノートと数冊の本が並べられていた。駅ノートは定期的に訪れる有志によって製本されており、駅廃止後は駅名標や改札ラッチなどと共に浦幌町立博物館に収蔵されている。

跨線橋より特急と行き違い待ちをする普通列車
跨線橋より特急と行き違い待ちをする普通列車

ホームは相対式の2面2線。普通列車の中には数分間停車して特急や貨物列車と行き違いをするものもあった。特急(左)はキハ283で普通(右)はキハ40、共に令和2(2020)年3月11日限りで根室本線からは引退してその姿を見ることができない。

ホーム
ホーム

キハ40の中には国鉄時代の朱色一色の塗装「首都圏色」を復元した車両もあり、国鉄時代からあまり姿を変えていない上厚内駅によく似合っていた。写真の中の車両も駅舎もホームも跨線橋も全てが消えてしまった。消えた駅の跡を訪ねて昔の写真を見返して強く感じるのは「諸行無常」というこの世の真理ばかりだ。

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鉄道ライター

駅に降りることが好きな「降り鉄」で、全駅訪問目指して全国の駅を巡る日々。

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