戦後70年。帝国海軍将校の肉声を聴き、2015年元日に思うこと
みなさん、新しい年が始まりましたね。いよいよ2015年の幕開けです。
今年は一体どのような年になるのでしょうか。
去年、2014年は安倍総理が目指す「戦後レジームからの脱却」に向けてまさに一直線となった年でした。「アベノミクス解散だ」、総理自身のそうしたかけ声のもと始まった暮れの総選挙でしたが、経済以外にも、震災復興や原発再稼働、北朝鮮拉致被害者、沖縄米軍基地、外交・安全保障問題など、争点はそれなりにあったはずでしたが、議論は深まりませんでした。投票率は戦後最低の52.66%。《日本を変えたのは「あの日」の無関心だった》と将来振り返る日が来るかもしれません。
■憲法改正について、みんなで真剣に議論したい
私は選挙前から、最大の争点は「憲法改正」だと折に触れて発言してきました。安倍総理が2012年暮れに政権に返り咲いてから、日本版NSC・国家安全保障会議の創設、特定秘密保護法の制定、憲法解釈の変更による集団的自衛権容認の閣議決定、憲法改正手続きを定めた国民投票法の改正、道徳の教科化の検討など、保守色の強い政策を矢継ぎ早に打ち出してきました。靖国神社への参拝も果たし、自身が目指す「戦後レジームからの脱却」を着実に進めてきたという印象を強く受けます。暮れには、自衛隊の海外派遣に関する恒久法の制定にむけて準備を始め、今年の通常国会で安全保障法制の成案を目指します。太平洋戦争終戦から70年という節目の年に安倍総理がどのようなメッセージを発信するのか大変興味があります。
2012年5月、自民党は日本が戦後主権を回復したサンフランシスコ講和条約の発効から60年の節目に新たに「日本国憲法改正草案」をまとめ公表しました。自衛隊を「国防軍」と改め、集団的自衛権の行使を容認。天皇を「日本国の元首」と位置づけ、日の丸や君が代の尊重を義務づけました。9条1項では「戦争放棄」を残す一方で「自衛権の発動を妨げるものではない」と明記しています。
東日本大震災への対応や復興が遅れたのは総理に権限が集中できなかったからだとして、テロや大規模災害時に総理大臣の権限を強める緊急事態条項も新設しました。第12条では憲法が国民に保障する自由および権利には義務が伴い、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と明記。現行法では国民の自由および権利は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としてあるものです。《公共の福祉》とは互いの人権を尊重しあいそれを侵害しないことによって成立する社会を指しますが、《公の秩序》は誰が何をもって規定するのか曖昧です。仮に国家権力によるものとなれば憲法での明記は強権の発動に繋がりかねません。
憲法改正は自民党結党時からの党是といわれていて、安倍総理は国民的な議論をしながら着実に進めていくと話しています。国家の基本設計図でもある憲法の改正。性急に進めることがないよう、まさに国民の理解と合意を得るためにじっくり向き合いたいところですが、中曽根康弘元首相が会長をつとめる「新憲法制定議員同盟」による昨年5月に開かれた党大会での決議文を紹介します。
「安倍内閣は数々の問題を抱えており、新憲法制定への歩みは必ずしも期待した程には進んでいない。一方、集団的自衛権の問題を憲法解釈の変更で認める方向であることは、憲法改正に要する時間の問題からやむを得ないと認めるとしても、このことによって憲法改正の動きにブレーキがかかってはいけないということを強調する必要がある」
安倍総理の背後にはこうした、強い主張を持つ改憲勢力がいることも知っておかなければなりません。
私たちが暮らす「日本」とはどのような国であるべきなのか。国民の一人としていまこそ憲法と向き合い熟議を重ね、私たちの判断と選択によって憲法改正議論が深まっていくことを願ってやみません。
■戦争経験者の「日常」から時代のゆらぎを知り、今を考える
私は去年暮れ、テレビ業界で働く仲間達と共に太平洋戦争終戦から70年を前に、当時の現役世代の方々から戦争体験を聞き取りアーカイブし、インターネットで公開する「みんなの戦争証言アーカイブ」というプロジェクトをスタートさせました。次の日本を創っていく上で過去の事実を正確に知ることはとても大事なことだと思っているからです。歴史は勝者によって塗り替えられる、とはよく言ったもので事実は次第に風化し忘れ去られそして都合の良いように利用されていくものです。1次情報にいつでもアクセスできる環境をつくることが私たちメディアで働く人間の社会貢献だと思ってこのプロジェクトを立ち上げました。
戦争終結はもう70年以上前のことになりますから、当時の現役世代のみなさんはすでに80歳〜100歳代です。いま、聞き取っておかなければもう後はありません。昨年夏頃からインタビューをはじめ、これまでに10人程の方々の聞き取りを終え、順次公開しています。
日米開戦から終戦までを現場の兵士として戦った方から、旧満州からソ連兵に銃撃されるも命からがら引き揚げてこられた方、日本の離島基地で飢餓線をさまよった兵士、元特攻隊員のパイロットの方まで様々な経験者たちに話を聞いて回っています。SNSを通じて呼びかけていることから、「ぜひ、うちの親戚の声を聞いてほしい」「祖父の体験を一緒になって聞き取ってほしい」などの依頼もありました。
インタビューをする際に大切にしているのは、「日常の中の戦争」という観点です。NHK時代から毎年8月や12月になると、戦争経験者の皆さんへのインタビューをして放送を通じて皆さんに伝えてきました。特に初任地が岡山局だったので、8月15日は広島の平和祈年公園からラジオ中継を担当したりリポートをつくったりと原爆関連の取材が主でした。インタビューは何時間もじっくり腰を据えて伺うのですが、放送でできるのは限られた時間です。厳選して編集した結果、最も過酷な現場を描き伝えることが多かったのですが、実は、激しい戦闘や被害がおきるまでの日常生活における、ゆらぎのような戦渦の足音を伝えることが今の時代に通じる大切なメッセージなのではと思うこともしばしばでした。
災害と同じで、まさか自分が被害者になるとは思っていない、そんな日常の感覚を太平洋戦争を経験した当事者の皆さんから何度も聞く機会がありました。今回のプロジェクトでは、ネットメディアの特性をいかし、時間をきにすることなく、ほぼノーカットでインタビューを丸々掲載しています。
■日米開戦、真珠湾攻撃から玉音放送までを知る兵士の声を聞いて
大晦日に、帝国海軍の将校としてあのミッドウェー海戦を戦った98歳の谷川清澄さんのインタビューを公開しました。真珠湾攻撃から玉音放送までの軌跡を内側から見つめてきた貴重な証言とあって、かなり反響が広がっています。
谷川さんは大正5年、福岡県に生まれ佐賀県で育ちました。「侍か軍人でなければ人でない」と言われた佐賀での暮らし。海が好きで、軍隊に憧れていたという少年は海軍兵学校を目指します。人々が自由を謳歌し文化を育んだ大正デモクラシー。「あれで空気が緩んだ」と谷川青年は時代の空気に厳しい目を向けます。
アメリカを仮想敵国とした兵学校での厳しい訓練に耐え、21歳で卒業。分隊長として駆逐艦に乗員した3年後の昭和16年、日米開戦を迎え出撃。ミッドウェー海戦では水雷長として、米国艦隊との激しい戦闘の渦中に。空からの波状爆撃で炎上し自走できなくなった空母「赤城」を沈めたのは、谷川さんが発射した魚雷です。轟沈する赤城に取り残された1人の水兵の影が見えたといいます。「30年は夢に出てきた」と谷川さん。日米開戦前夜から終戦までを一貫して軍人として闘い、見つめてきた谷川さんの証言は貴重です。
ミッドウェーでの作戦は事前に漏れていたーー。インタビューの中では、谷川さんが目の当たりにした衝撃的な大本営の舞台裏も明かされます。また、当時の新聞やラジオ報道に関しても現役の将校がどのように評価していたか語っています。情報が政府によって統制されたいわゆるプロパガンダについて、「嘘っぱちを流してはいけない」と、当時から否定的な態度をとっていたと明かしています。
インタビュー動画はおよそ2時間。
サイトにアクセスをしていただければ全て誰でも無料で観られます。
谷川さんの声は全て文字にも起こしてありますので、その一部をみなさんにもシェアします。
堀 実際谷川さんは真珠湾攻撃の前後というのはどういう状況だったんですか?
谷川 駆逐艦に乗ってましたからな、開戦のときは香港攻略だったかな。それまではね、古い駆逐艦の雷に乗ってたんです。それからしばらくしてから新鋭の駆逐艦の嵐に乗ったんです。雷でちょっと、嵐で割合長く。ということですね。
堀 率直に、これからアメリカとの戦争がいよいよ始まるというのを知ったときはどんなお気持ちで?
谷川 どうせ。軍人半額25年だから、25歳までの間に死ぬだろうなと思ってましたよ。とても勝つと思いませんよ。とにかくね、国力にしても10倍以上あるでしょ。 それからモノを作りにしてもね、日本が駆逐艦1隻作るのに向こうは10隻ぐらい作れるんです。能力的に。そんなのは全部分かってますからね。だからまともに戦争したらどうせ負けると、ま、そのうち死ぬだろう。あとのことは考えんでもいいや。でも死に損ないましてね。
堀 そのアメリカはかなり国力が高いという話しは兵学校で習うんですか?それとも仲間内の中でお話になるんですか?
谷川 兵学校でもわかるし、それから勉強すりゃすぐわかりますからな。とにかく少なくとも10倍ぐらいはある。ただ、新聞なんかではヤンキーは弱いから、っていうけどね人間ってのはそんなものじゃないですからね。
堀 当時まさに大本営の発表、ま我々は今メディアで働いてますが当時のメディアは大本営発表。国民が戦争の状況をあまり正確に知ることができなかった一つだと言われていますが、割とメディアの発表というのは冷静にご覧になってたわけですか?
谷川 ほとんど観ません。どうせウソ八百並べとるだろとしか思いませんから。
堀 そうですか。
谷川 いいことしか言わないんですから。戦争するにはね、ウソをついたらダメなんですよ。本当のことを言わないとダメ。
堀 それは同期の方や、乗組員の方や、みなさんもその開戦当時そのような思いでいらっしゃったのか?
谷川 だいたいそう。それが多かったですね。
堀 そういうのを表立ってお話ができる環境ではあったんですか?
谷川 話しはなんとでもしますよ
堀 我々が抱いてるイメージといのは、軍人は一丸となってアメリカに勝つんだと信じて戦っているという印象があったんですけど。実際はみなさん冷静にご覧になってたということでしょうか?
谷川 わたしたちが、新聞をみたり資料を見たら日本とアメリカとはとにかく、十倍以上の差がありますから、普通考えてもね、10倍の力のあるのとケンカしたら負けますわな。戦争でも同じですよ。
堀 そういう思いを抱きながらも、出撃をしなくてはいけないというのは何が逆に心を支えることになったんでしょうか?
谷川 やっぱりね、国がそういうことを決心したんだったら、国民としてはねそれに従わざるを得ないと、がんばろうと。これが軍人の務めだと。だから私は25歳で死んでしまおうと思ったんですよ。世の中ってのは不思議ですね。全然死なないんだから。手足も指も欠けませんしね。
堀 普通海軍でね、いかれた方は腕を失ったり。
谷川 足が無かったりね。
堀 今、谷川さんがおっしゃった、国が決めたのであればという国というのは、何を指して国だというふうに思ってらっしゃった?
谷川 ん?
堀 国というのはすなわちなんでしょうか?天皇陛下なのか、それとも大本営なのか、それとも政府なのか。国が決めたのであればの国ってのは具体的には当時は何をイメージ真っ先にするもんなのでしょうか?
谷川 ぼんやりと感じるのは国っていうのはやっぱり日本のずっとつないだ連綿とつないだ日本の歴史。そこに生まれた人間。これはやっぱり日本の為にやらんといかんと。それが国のためですよ。
インタビューは準備も含めおよそ3時間半。
ともに取材をした、番組ディレクターの安彦和弘はこう語っています。
「このプロジェクトを進めていくときにふと、過去を掘り起こす作業は前を向いているのか?と自問自答することがある。しかしいつも取材を進めていくとその疑問は払拭される。未来に伝えたい言葉に出会えるからだ。まさに谷川さんのときもそうだった。谷川さんは「お国のために戦うことは当然だ」と話した。そのお国とは何を指すのか質問すると、そんな質問を受けたのは初めてだったのだろう、しばらく上をみつめそして、「ぼんやりと感じるのは国っていうのはやっぱり日本のずっとつないだ、連綿とつないだ日本の歴史。そこに生まれた人間。それが国のためですよ。」と話した。そこには完全に「私」を滅して「公」の心を持った谷川さんがいた。もちろん戦争は大否定だが、自分を犠牲にしてでも護る。僕自分も含め、自分だけは損をしたくないと考えがちな現代に伝えたい言葉だと感じた」
一方で、大本営発表によるプロパガンダは私の大学時代からの研究テーマでした。
谷川さんが海軍の内側にいて、当時のメディアコントロールをどうみていたのかがわかり貴重な証言だと実感しました。
「ミッドウェーでも負けたのなら負けたと言って、次はこうしようと言えばいい。戦争をするのに嘘を言っては行けない」という証言も印象的。間違っていると思ったことは上官であろうと恐れずはっきりと言ってきたという谷川さん。インタビューの終盤、「戦争をするなら勝たなくてはいけない。負け戦の話は本当に悔しい」と拳を握りながら絞り出すように語りました。戦場で身体を吹き飛ばされ亡くなった戦友たちや焦土と化した本土で命を失った人々の姿が記憶に刻まれているからです。
国家とはどうあるべきか、そして国とはそもそも何をするべき場所なのか、色々と考えさせられるインタビューでした。ぜひ、みなさんも当事者の声に耳を傾け、自ら考えるための糧にしてもらえたらと思っています。
「みんなの戦争証言アーカイブ」をぜひご活用下さい。
ではでは、本年もよろしくお願い致します。
※ブロマガ「堀潤の発信は誰にも止められない」より引用