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近松『冥途の飛脚』のタカラヅカ版、雪組『心中・恋の大和路』で和希そらが大熱演

中本千晶演劇ジャーナリスト
『タカラヅカの解剖図鑑』100頁より筆者作成 ※イラスト:牧彩子

 8月10日、日本青年館ホールにて、宝塚歌劇雪組『心中・恋の大和路』の東京公演を観た。

 2日間3ステージしかない東京公演だった。新型コロナウイルスの感染急拡大により、多くの舞台が次々と公演中止に追い込まれる中、この作品も然りで、もともとの日程のほとんどが公演中止になってしまったのだ。それだけに、休演期間を経て熟成したエネルギーが、一気に爆発したかのような舞台となった。

 『心中・恋の大和路』は、近松門左衛門による心中物の代表作の一つ『冥途の飛脚』を題材とした、タカラヅカでは異色の作品だ。初演は1979年。好評につき再演を重ね、すでに名作の評価を得ている作品である。

 ところが、ここで一つ問題がある。主人公の亀屋忠兵衛という役が、現代の普通の感覚からすると、どう見ても「かっこいい」とは思えないのだ。飛脚問屋の主人でありながら遊廓に通い詰め、惚れた遊女を身請けしたいがために、店の金300両の封印を切ってしまう。

 つまり忠兵衛は、普通に考えられるタカラヅカの男役スターの守備範囲からは大きく外れた難役なのだ。

人間の弱さと強さを見せる、和希そらの忠兵衛

 6度目の再演で忠兵衛に挑むのは、雪組の和希そらだ。『夢千鳥』の竹久夢二、『プロミセス・プロミセス』のシェルドレイク部長など、このところ恋に関して一筋縄ではいかない役で引き出しを増やしてきた和希が、果たしてこの難役をどう料理して見せてくれるのか? それが今回の再演の注目ポイントだった。

 ところが今回、私は和希そらの忠兵衛に素直に魅入られてしまった。まず、男役・和希そらの魅力であるアンニュイな色気が、忠兵衛という役にピタリとはまっていた。ふとこぼれ出る笑顔からは、男の可愛らしさも感じる。

 しかも、世間の物差しで測っても十分に「理想の男性」に思えた。いや、正確にいうと「かつては、理想の男性だった」と言うべきだろう。

 きっと彼は、亀屋の暖簾を守るべく勤勉に励んでいたのだ。頭も良くて仕事もできたに違いない。しかも彼は生粋のお坊ちゃんではない。もともとは新口村の大百姓の家から養子にもらわれてきた「根は武骨」な田舎者である。色里での遊びも、粋が板についた八右衛門と違って、彼なりに努力して覚えたのではないか。和希の忠兵衛からは、そんな本来の姿が垣間見えた気がしたのだ。

 そんな男が、恋に狂ってしまった。元々、しっかりとした強いエネルギーを持った人が、その爆発のさせどころを誤ると大変なことになる。幕間に「忠兵衛って、ほんとバカだよねえ」と呆れて話している人がいたが、まさにその通り。それは演者に対しては最高の誉め言葉だ。

 だが、和希の忠兵衛からは、最後の最後まで、生き残る可能性に賭ける諦めの悪さも感じた。生きることを諦めないことで、梅川に愛の証を示そうとしているかのようにも思えた。

 人間というのはとても弱くて、でも強い。その振れ幅こそが忠兵衛という男の魅力なのだ。

 夢白あやが演じる梅川がこれまた、男を狂わせる罪な女である。儚げで、壊れてしまいそうで、いかにも危なっかしい。ところが、ひとたび恋仲になれば一途で情熱的で、「守ってやれるのは俺だけだ」と男に思わせる。そんな梅川と、どこか心の拠り所を求めていた忠兵衛、二人が出逢えば恋に溺れていくのは必然だと思えた。

二人の悲劇を際立たせる、タカラヅカ版の工夫

 『心中・恋の大和路』には、原作の『冥途の飛脚』には出てこないキャラクターも登場し、各々のキャラクターがより深く描き込まれている。それがまた、破滅に向かっていく梅川・忠兵衛のドラマを膨らませ、現代の観客にとってわかりやすいものにすることにも一役買っている。

 凪七瑠海が演じる八右衛門は大人の男の余裕たっぷり。孤独な忠兵衛を受け止めることができる、ただ一人の友である。二人の絆は近松の原作よりいっそう細やかに描かれる。八右衛門が歌う「この世にただ一つ」には、温かみと優しさが溢れていた。それはまさに、忠兵衛に寄り添う友の歌であり、祈りの歌であった。

 タカラヅカ版オリジナルのキャラクターである手代・与平(諏訪さき)とかもん太夫(妃華ゆきの)は、恋によって身を滅ぼす梅川・忠兵衛とは対照的に、恋によって救われ、まっとうな人生を歩む二人である。与平の純情と律儀、かもん太夫の風格と悟り。その存在が、梅川・忠兵衛の悲劇をさらに際立たせる。

 女中おまん(愛羽あやね)と丁稚の庄介(紀城ゆりや)・三太(霧乃あさと)との他愛ない会話、番頭・伊兵衛(真那春人)の主人を思う気苦労、そして複雑な母子関係を感じさせる継母・妙閑(千風カレン)の存在感。亀屋で繰り広げられる日常が時にコミカルに、丁寧に描かれ、それもまた忠兵衛の異常さを浮き立たせる。

 今回の再演を見て、終始モノトーンでまとめられた舞台装置が、改めて強く心に残った。それはまるで、迷える人間の心の闇のようだ。藤屋(悠真 倫)が手堅くまとめる宿衆たち(天月翼・麻斗海伶・一禾あお・真友月れあ・壮海はるま)の、闇の中での冷たく硬い結束が不気味である。

 その中でひときわ映える、新町の遊女たちの着物の艶やかさ。真紅の禿たちの居並ぶ姿は、夢の世界の虚しさを感じさせる。

 不協和音が多用される音楽も不安をかき立てる。とりわけ1幕ラストの「封印切り」の場面でのロック調の音楽が鮮烈だ。初演で脚本・演出を手がけた菅沼潤は「文楽三味線はロックに似ている」と言ったそうだが、なるほど確かに文楽三味線の叩きつけるような音色を思い出させる。ここでの忠兵衛の叫びは、まるで現代の拝金主義に対する呪いのようにも聞こえた。

 2幕の道行は、タカラヅカらしくショーアップされた場面だ。だが、二人にとっての束の間の幸せな時間が訪れたかと思えば、追手である宿衆たちが二人を追い詰める。緩急自在な構成である。新口村での孫右衛門(汝鳥伶)は短い登場場面の中で、父の慈愛と厳格さの両面を見せる。

 そして、『心中・恋の大和路』といえば、2幕ラストの雪山の場面だ。哀しい結末である。だが、死に至る二人の表情からは、短い命を精一杯生き切った満足感と、恋に命を燃やし尽くすことができた喜びが伝わってくるような気がした。

演劇ジャーナリスト

日本の舞台芸術を広い視野でとらえていきたい。ここでは元気と勇気をくれる舞台から、刺激的なスパイスのような作品まで、さまざまな舞台の魅力をお伝えしていきます。専門である宝塚歌劇については重点的に取り上げます。 ※公演評は観劇後の方にも楽しんで読んでもらえるよう書いているので、ネタバレを含む場合があります。

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