日銀総裁も支援した明治の「孫正義」 飛行機開発に捧げた一生
三菱重工業はいま、プロペラ機の「YS-11」以来となる約50年ぶりの純国産旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の開発を急いでいる。しかし、経験不足から予想以上に開発期間が長引き、それがコストを膨らませ、同社の業績の足を引っ張っている。
ベールに包まれた半生
今から100年以上も前、ちょうどライト兄弟が世界初の有人飛行に成功した1903(明治36)年頃に、実は日本でも飛行機の開発に取り組んでいた一人の若者がいた。その名は矢頭(やず)良一。開発途中の30歳で没したため、一般にはほとんど知られていない。
遺されているわずかな資料や、筆者が遠縁関係者に聞き取ったことなどから矢頭の生涯を紹介したい。そこからは、夢や志があれば、誰かが手を差し伸べてくれることが分かる。現代社会は世知辛く、短期的な視野で物事を判断しがちだが、若い人の夢や志を摘み取るようなことをしては絶対にいけない。そうしたことも示唆している。
出身は福岡県黒土村
矢頭は1878(明治11)年、福岡県築上郡黒土村(現同県豊前市)で生まれる。幼いころから鳥類に興味を持っていた。地元の小笠原(小倉)藩の藩校の流れを汲む名門・豊津中学で学ぶが、飽き足らず、15歳で大阪に出て独学で工学や語学を学んだ。大阪では溺れかかった外人宣教師の娘を助けた縁で英語を学び、その宣教師と一緒に米国に渡ろうとしたが、失敗したという。
自動算盤の開発
1899年(明治32)年、矢頭は徴兵検査のために帰郷。地元の村史には、検査官に対して、矢頭は「私は他に目的があるので、徴兵期間はできるだけ短い方がいい」と答え、要注意人物と見なされた、といった表記も残る。今風に言えば、「変人」なのだろうが、偉大なる発明家や科学者の人物伝ではこうした逸話はこと欠かない。
地元に戻った後の矢頭は、父が村長を務めていたこともあって、役場の事務の仕事を手伝う。そのプロセスで不効率な役所仕事の効率化の必要性を感じ、機械式自動計算機(自動算盤)の開発に取りかかった。同時に論文「飛翔原理」の執筆にも取り組んだ。計算機開発に取り組んだのは、社会からの信用と飛行機の開発資金を得ようとしたためと見られる。
文豪・森鴎外が支援
開発と論文に埋没する中、矢頭にチャンスが巡ってくる。23歳の時だ。森鴎外との出会いだった。当時、鴎外は本名の森林太郎として、九州・小倉(現北九州市)にあった陸軍第12師団の軍医部長として赴任していた。小倉は、矢頭の郷里から約40キロ。今だと電車で50分ほどの距離だ。
矢頭は地元の福岡日日新聞(現西日本新聞)の高橋光威主筆の紹介で1901(明治34)年の2月22日と3月1日、雪の中、鴎外を訪ねた。鴎外に「飛翔論理」と計算機の模型を渡し、飛行機開発の夢や資金が必要なことを訴えた。
矢頭は、思いついたら行動に移す。破天荒だ。そして「人たらし」の面があったようだ。その行動は、ソフトバンクグループ会長兼社長の孫正義氏と重なってしまう。孫氏もまだ無名の頃、ホンダの創業者、本田宗一郎氏に近づき、その才能を認められた。シャープ元副社長の佐々木正氏には自動翻訳機を売り込み、そこで次の一手の資金を得た。
鴎外の『小倉日記』では、帝国理科大学(現東京大学理学部)を紹介、そこで研究ができるように斡旋したことが記されている。地元村史によると、その時、鴎外は「何かあれば私の母を頼りなさない」とまで言ったそうだ。若き矢頭の将来性を認めたうえで、その熱意に打たれたのであろう。
資金200円で上京
1901年、矢頭は早速上京することになる。上京資金200円(現在の価値では約30万円相当)を九州筑豊の炭鉱主が支援した。計算機開発にも成功し、1903年には特許を取得した。東京・神田に設立した矢頭商会が1台250円で内務省や陸軍などに250台売ったという。陸軍からは「機能が優秀」といった証明書をもらった。1台あたりの価格は当時で一戸建ての家が建つほどだった。それで得た資金を飛行機開発につぎ込んだ。その計算機は北九州市立文学館に現存しており、2008年に日本機械学会によって「機械遺産」に認定されている。
矢頭は、この計算機以外にも、文献を早く読むための「早繰辞書」も考案し、当時の新聞は「少壮なる発明家」として矢頭を紹介している。
計画的偶然性とは
ここから言えることは、夢をあきらめてはいけないということだ。人には大なり小なり、色々な夢がある。今大学生であれば、将来の職業選択、現代風に言うならば自分のキャリアプランも一つの夢だ。しかし、夢は必ず実現するとは限らない。しかし、持たないと実現しない。
キャリア研究の世界で「計画的偶然性」という言葉がある。自分の夢を実現させるためには、計画を立てて動かないといけないが、必ずしも計画通りにはいかない。しかし、計画を立てて努力していないと、チャンスが巡って来た時に、そのチャンスに気付かないという意味である。矢頭の行動からも、「計画的偶然性」の大切さが分かる。
日産の創業者と知り合う
ところで、鴎外と知り合ったことで運を掴んだように見えた矢頭だが、上京から4年後の1905年、27歳の時に病魔が襲った。肋膜炎だった。当時、矢頭は睡眠時間3時間程度で研究に没頭していたことも、身体を蝕む要因になったのかもしれない。
矢頭は九州に一時帰郷し、別府の温泉で療養する。1年間の療養後、上京して、再び飛行機の開発に取り組む。父も村長を辞めて一緒に上京して息子を支援した。
1907(明治40)年には新しい出会いもあった。この頃、長州藩出身の明治元勲、井上馨や日本産業(日産自動車など)創業者となる鮎川義介からの支援を受けるようになった。鮎川にとって井上馨は大叔父。井上邸で書生をしていた鮎川が矢頭の話を聞き、井上に取り次いだところ、井上はいきなり日本銀行の松尾臣善総裁を紹介した。松尾は日露戦争の戦費調達でも尽力したことで知られる。当時、日露戦争に勝利した直後とはいえ、国家として飛行機開発の重要性に気づき始めたのかもしれない。
日銀総裁からの2万円
鮎川と矢頭は松尾を訪ねたところ、松尾は現金2万円入りの封筒を渡した。今では信じられないような話だが、松尾は若者の志に「投資」したのではないか。2人は抱き合って喜んだという。鮎川は矢頭の2歳下。同世代の2人は馬が合ったのか、鮎川は矢頭のことを気に掛けるようになったという。
この2万円を元手に矢頭は東京・護国寺の近くに飛行機のエンジンなどを試作する工場を設立した。鮎川は後に日本経済新聞の「私の履歴書」(1965年1月12日付)で矢頭のことを振り返って、「まれなる天才」と評している。鮎川は工場完成前に渡米したが、米国から矢頭に飛行機関係の資料を送ったそうだ。
肋膜炎が再発 病魔に勝てず
しかし、肋膜炎が再発し、北里病院で治療を受けるものの、1908(明治41)年10月、開発途中に30歳の若さで死去した。鴎外はその死を悼み、東京での法要の発起人となり、後に遺族に「天馬行空」と揮毫した書を送った。
米国から帰国した鮎川は矢頭の死から3年後の1910(明治43)年、戸畑鋳物(現日立金属)を創業、新興の実業家として台頭し、日産財閥を形成していく。鮎川は矢頭の親戚の就職の面倒も見たそうだ。
航空機産業の先駆け
日本の航空機産業の黎明期は大正時代と言われる。三菱重工業の社史にも「当社の航空機事業の嚆矢は大正8(1919)年」とある。軍部から三菱合資会社に対して飛行機製作の要請があったことを受け、神戸造船所内に内燃機課を設け、飛行機と自動車の研究を同時に開始した。
矢頭良一の動きは、三菱のそれよりも早い。矢頭の行動が、後世の研究にどのように影響したのか、資料はほとんど残っていないと見られる。論文「飛翔論理」の原文も残っていたが、関係者によると、ある記者に貸した後、行方不明になったという。また、鮎川の回想では、矢頭の没後に東大教授が調べたが、まだものになる状況ではなかったという。
結局、矢頭は「孫正義」になることはできなかった。しかし、こうした一見無鉄砲かと思われるようなことに挑戦する人材が多くいるから、成功者も出てくるのである。その生涯をほとんど知られていない一介の田舎の青年が壮大な夢を抱き、挑戦したことは歴史として刻みたい。 (一部敬称略)