Yahoo!ニュース

「ひとりの教員が細やかに指導するには生徒10人が限界」という慶徳さんは教員を辞めた

前屋毅フリージャーナリスト
「サイボウズの楽校」で子どもたちと向き合う慶徳さん          撮影:筆者

 若者に人気の東京・吉祥寺の商店街にあるビルに、「3rdschool(サードスクール)吉祥寺校と、「サイボウズの楽校」がはいっている。ふたつが別々に入居しているのではなく、同じスペースに、いわば「同居」している。

|校長になっても自分の目指す学校はできない

 慶徳大介(けいとく・だいすけ)さんは、サードスクールの教室長であり、サイボウズの楽校ではカリキュラムマネージャーを務めている。ふたつの場所で、それぞれ重要な役割をはたしているのだ。その慶徳さんは「元教員」である。

 慶徳さんは2014年に、東京都の教員になった。そのとき、彼には「目標」があった。それは、「早く管理職(校長)」になることだ。偉くなりたいとか、そういう理由ではない。

「教員になって初任校が特別支援学校で、子どもたちはスクールバスで通学していました。しかし肢体不自由でケアが必要な子は、バスに乗せてもらえない。『おかしいだろう』というので、保護者と一緒にいろいろなところに働きかけて、乗れるようになりかけました。ところが、校長の一声でダメになってしまった」と、慶徳さん。

 この一件で彼が痛感したのは、「こんなにも大きな権限をもっているのが校長なのだ」ということだった。そうであれば、校長次第で学校は良くもなれば、悪くもなる。「それなら、良い学校をつくるために早く校長になろう」と、慶徳さんは考えた。

 その彼に、また別の事件が起きる。小笠原諸島の父島に異動になり、特別支援クラスを担任することになったが、場所がないので授業は校長室を使った。「毎日、校長室にいるので、必然的に校長の日常にも触れることになります」と、慶徳さん。そこで権限をもって学校づくりに励む校長の姿を目の当たりにしたのかといえば、そうではなかった。

「目の当たりにしたのは、権限はあっても、実際にやろうとしてもできないでいる校長の姿でした。グチも、よく聞かされました。子どもたちのために校長がやろうとしても、その上の教育委員会から『ノー!』といわれれば終いなのです」

 それなら、校長ではなくて、教育長を目指すしかないのかもしれない。それを慶徳さんに訊ねると、笑いながら答が返ってきた。

「当時の私に、教育長を目指す考えは浮かびませんでした。私が目指す範疇にはなかった」

|結婚と子どもの誕生のタイミングで辞める

 そして、慶徳さんは教員を辞める。2018年3月のことだった。まる4年の教員生活だったことになる。

「28歳のときでした。辞めるタイミングを考えていたら、生活の安定を優先させて辞められなくなるとわかっていました。人生で後悔しない選択をしたいと考えたら、やはり辞めることでした。ただ、そのとき結婚する予定で、子どもも生まれてくるタイミングでした」

 いちばん安定を優先しなければならないタイミングで、それを捨てたことになる。そしてサードスクールに入社した。とはいえ、学校に代わる安定を保障してくれるわけではなかった。

「小笠原にいるころから、サードスクールの事業責任者となる山田雄太とオンラインで会議を重ねていました。そこからサードスクールの構想が生まれ、そこに私が参加したかたちになります」

 山田さんは慶徳さんの大学の後輩で、1919年に創業して現在は多角的に事業を展開しているナカチカ株式会社に入社していた。そこで彼に与えられたミッションは新規事業であり、教育関連の事業を模索していた。その過程で、大学の先輩であり、教員だった慶徳さんに相談していたのだ。そこに子どもたちにプログラミングを教えていた経験のある山口康平さんも加わる。そして、プログラミング教室「サードスクール」が生まれることになる。

 教員を辞めてサードスクールの一員になったのだが、まだ事業として起ち上がっていたわけではない。ナカチカの支援があって場所だけは確保できたものの、生徒はひとりも集まっていない状況だった。そこから軌道に乗せていくのが、慶徳さんの役割でもあった。

「毎朝4時に起きて、一軒一軒に案内をポスティングしていくことからはじめました。1年経っても生徒数は40人くらい、ようやく100人を超えたのが3年目でした。黒字化したのは4年目です」

 2021年にはナカチカから独立して「株式会社3rdschool」となり、代表には山田さんが就任した。プログラミング教育が小学校で必修化されたのが2020年度からで、プログラミング教室の需要が伸びていくときだった。もちろん、だからこそプログラミング教室という事業を起ち上げたといえる。それでも当初、慶徳さんの生活は苦しかった。

「妻子ともども実家に転がり込みました。赤ん坊がいたので、父母も喜んでくれたかもしれません(笑)」

 実家があったからこそ、のことである。それ以上に、結婚と出産を控えて教員を辞めるという夫に文句のひとつもいわなかったという奧さんがいたからこそ、現在の慶徳さんがあるのだろう。

|家庭でも学校でもない学びの場

 プログラミング教室が軌道にのったとはいえ、それが慶徳さんのやりたかったことのすべてではなかったし、サードスクールが目指しているものでもない。

「教員を辞めてサードスクールにくわわったのは、『第3の学びの場をつくる』という理念があったからです。第1の学びの場が家庭で、第2が学校です」

 それは、山田さんたちとミーティングを繰り返すなかで創りあげてきた理念でもあった。だから、スクール名に「3rd(サード・3番目)」が付いている。

「第3の学びの場の役割を、『道を創りだす人を育てる』ことだと私は考えています。身近に自殺してしまった子がいて、そのときは大きなショックを受けました。選択できる道がなくなったことが自殺の原因だ、そう当時もおもっていました。自分で道を創れてさえいれば自殺することもなかった」

 子どもたちは「大人が決めた道」を歩かされている。自分が望んでいるか望んでいないかは関係なく、その道を押しつけられている。そこから外れてしまったとき、そこに価値を見いだせなくなったとき、子どもたちは挫折し、絶望してしまう。最悪、自ら命を絶つことを選んでしまったりもするのだ。

 自分の生きる道を自ら創りだしていくことができれば、子どもたちは希望をもっていける。しかし、それを第1の学びの場も第2の学びの場も重視してくれない。だから慶徳さんは、それを重視する第3の学びの場づくりを目指そうとしたのだ。そのために教員を辞めた。子どもたちが自らの道をつくりだすために必要なことを、慶徳さんは次のように語った。

「自分を好きになることだと、私はおもっています。それには、ひとりひとりが認められることが必要です」

 第2の学びの場である学校には、そこが欠落しているのではないだろうか。ひとりひとりを認めることよりも、一定の価値観を押しつけ、それによって評価することが優先される。

 サードスクールが目指しているのも、プログラミングをつうじて「子どもたちの個性と才能を磨いていく」ことだ。プログラミングにこだわらないかたちへと、そのうち発展していくかもしれない。

 それを先取りするような、プログラミングを主としない子どもたちの個性と才能を磨いていく場が、「kinton(キントーン)で知られるソフトウエア開発会社から業務委託をされている「サイボウズの楽校」といえる。今年(2024年)4月にオープンしたばかりだが、教科学習だけでなく農業体験をしたりと、多彩な学びが行われている。そうしたなかから、子どもたちは自分が好きになり、自らの道を創りだしていけるようになる場を、慶徳さんは目指している。

「サイボウズという会社は、何か決まったところに向けて、その目標を達成するために突き進んでいく会社ではないというのが、私の理解です。手持ちのカードを駆使しながら、連携して、より良いものを創りだしていくことを目指している」

 既存の学校の枠にとらわれず、サイボウズなら新しい学校の姿を創ることができるかもしれない。そこに、慶徳さんは期待しているようだ。

 目指すものを実現するのが「少人数」だ、と慶徳さんは考えている。「教員1人に生徒20人とか、それ以上の規模を目指せば、経営的には好ましいのかもしれません。ただし、それでは既存の学校と同じことしかできなくなってしまいます。ひとりひとりを細やかに指導していくには、教員1人に生徒10人が限界だと考えています」と強調した。

 規模を小さいままにしておく、ということではない。慶徳さんと同じ役割をはたせる大人が増えていけば、それに比例して生徒数も増やしていける。

 慶徳さんは教員を辞めて、既存の学校ができないでいる「ひとりひとりを細かく指導し、自らの道を創りだしていく子どもたちを育てていく」存在になろうとしている。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

前屋毅の最近の記事