【幕末こぼれ話】坂本龍馬の海援隊は自給自足といいながら、実は毎月決まった給料をもらっていた!
土佐浪士・坂本龍馬が組織した海援隊は、自分たちが海運業で稼いだ金を各人に分配することになっていて、土佐藩からは特に給料は支給されないことになっていた。
しかし調べてみると、建て前とは異なり、彼らには毎月決まった金額が支給されている実態があった。なぜ、当初の方針どおりに自給自足をつらぬけなかったのか。
海援隊の給料の実態について、気になるその金額とともに解説してみよう。
海援隊の前身・亀山社中
坂本龍馬の海援隊は、前身を亀山社中といった。慶応元年(1865)5月頃に結成されたが、その時はまだ龍馬の脱藩罪が許されていなかったため、土佐藩ではなく薩摩藩の支配下にあった。
活動内容はほぼ同一で、軍艦の運航にあたりながら、物資の運搬を行なって利益を得る。その利益を隊士一同で分配し、各人の生活費としていたのである。
幸いに亀山社中が結成された直後、薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が結ばれる大きな出来事があり、武器弾薬や軍艦の運搬という重要な仕事が舞い込んだ。そのため当初の亀山社中は、文字どおり順風満帆のスタートを切ることができたのだった。
しかし、薩摩藩の支配下にあるとはいっても、所詮はフリーランスの立場である社中には、安定した仕事は入ってこない。そこで龍馬が、薩摩藩に対して毎月決まった給金を支給してくれるよう頼み込んだらしい。
「坂本龍馬手帳摘要」の慶応2年(1866)10月の項に、給金の領収証のひな形が記載されている。
三両二歩也
坂本龍馬 寺内新右門 多賀松太郎 菅野覚兵衛 白峯駿馬 陸奥元次郎 関雄之助
右ハ当月何月分たしかニ頂戴仕り候。以上。
関雄之助 印
寅何月何日
印鑑○関雄之助
右ハ印鑑を以て坂、寺、多賀、菅、白、陸、関、七人之分、毎月三日壱人当り三両弐歩ずつ頂戴仕り候。以上。
寅十月三日
これによると、龍馬ら7人の者の給金を、毎月3日に隊士関雄之助(沢村惣之丞)が代表して薩摩藩から受け取り、各人に渡すことになっていたようだ。金額は一人あたり3両2分。
この3両2分が現代のいくらに相当するのかという問題があるが、1両はおよそ6万円~10万円とされている。日銀貨幣博物館では、米の価格による換算で1両を約6万円としているので、ここではそれにもとづいて換算してみたい。
すると、3両が18万円で、2分は1両の半分なので3万円。合わせて21万円ということになる。彼らは毎月、21万円の月給を得ていたのである。金額的に、現代の若いサラリーマンとあまり差がないことが微笑ましい。
また、隊長である龍馬が、ほかの者と同額しかもらっていなかったことが注目される。これは同時代の浪士結社である新選組において、局長(隊長)の近藤勇が平隊士の十倍以上の金額を受け取っていたことと対照的だ。
近藤が欲張りだったというわけではないが、龍馬の場合は金銭に無頓着な部分があった。そんな龍馬の性格が、亀山社中の均一の月給額に反映されていたのだろう。