【幕末こぼれ話】リンゴは江戸時代にはまだなかった? 初めて食べたのは坂本龍馬を育てたあの名君!
現代では食卓に上るフルーツの代表格であるリンゴだが、江戸時代にはまだなかったことはご存じだろうか。
そのリンゴを日本で初めて栽培して食べたのが、幕末の名君として名高い越前福井藩主・松平春嶽だった。
あの坂本龍馬を見出したことでも知られる春嶽の、先見の明に迫る。
江戸時代のリンゴはピンポン玉
私のように時代考証の仕事をしていると、テレビ時代劇に当時存在しなかった物品を登場させてはいけないと気を遣う。
江戸時代の作品の場合、その最たるものがリンゴだ。リンゴは現在あまりにも一般的なフルーツであり、また「林檎」という古めかしい漢字が当てられているように、昔から存在していたような印象を受ける。
現に、元禄10年(1697)に刊行された『本朝食鑑』という食物解説書には「林檎」という項目があり、「味は甘酸っぱい」などと記されている。
しかし、これは現在のリンゴとは違って、果実の直径が3~4センチにしかならない、別の果物というべきものだった。3~4センチといえば、ちょうどピンポン玉程度ということになる。
したがって、テレビ時代劇に、もし現代のような大きなリンゴを登場させては、時代考証無視との指摘を受ける大失態になるわけである。
そんななか、幕末になって初めて、現代のような西洋産リンゴを栽培したといわれるのが、福井藩主の松平春嶽だった。
江戸の福井藩邸内で栽培
新しい物や珍しい物が好きな松平春嶽は、文久2年(1862)にアメリカ産のリンゴの苗木を入手し、江戸巣鴨の福井藩下屋敷で栽培したとの記録がある。
実った果実を春嶽が食べたという記録まではないものの、もちろん食べたことだろう。従来の「和リンゴ」とは違う、大きく食べ応えのある「西洋リンゴ」の果実に、春嶽は感激したのではないだろうか。
この西洋リンゴはその後、明治4年(1871)に明治新政府の方針で北海道開拓使次官の黒田清隆がアメリカから多くの苗木を持ち帰り、本格的に栽培が開始された。
幕末に松平春嶽が西洋リンゴを栽培したことと、明治政府の栽培推進の方針は連動してはいないようだが、春嶽の先見の明は確実に新時代のリンゴ栽培に影響を与えた。そのため現在春嶽は、「リンゴの父」と親しみを込めて呼ばれている。
ところで、春嶽がリンゴの苗木を植えた文久2年、福井藩上屋敷を土佐脱藩の坂本龍馬が訪れた。一介の浪人である龍馬がアポなしでやって来たにもかかわらず、春嶽は謁見に応じ、国防論について語り合った。
結果的にこの対面が龍馬を大きく飛躍させる契機になったのだが、春嶽はなぜ、若く無名の龍馬との謁見に気安く応じたのだろうか。
それは初めて会った龍馬に、新時代のリンゴのような、可能性と魅力を感じたからに違いない。春嶽の先見性は、その後の日本にとって欠くことのできない「リンゴ」と「坂本龍馬」を見出したのである。