【幕末こぼれ話】新選組の名を一躍有名にした池田屋事件は、なぜ起こったのか?
元治元年(1864)6月5日に起こった池田屋事件で、新選組は多数の倒幕派を捕殺し、その名を一躍天下にとどろかせた。
倒幕派の志士たちは、御所に放火して佐幕派の中川宮を殺害し、混乱に乗じて天皇を長州に連れ去るという陰謀を企てていたため、新選組の働きはきわめて大きなものだった。
ところが、新選組があまり好きでない人々からは、「中川宮の殺害や、まして天皇誘拐という暴挙が本当に計画されていたのか」といった疑念の声があがることがある。新選組の勇み足だったのではというのである。
事件から160年後の今夏、そんな疑念にはっきりと答えてみよう。
永倉新八の証言
まず新選組隊士・永倉新八は何といっているか。
「志士一同は某の時刻をあいずに御所に火をかけて焼き打ちを開始し、その混雑にまぎれて島津侯と会津侯を君側からのぞき、おそれおおくも聖上の長州ご動座をうながしたてまつるという陰謀である」(「新撰組顛末記」)
ここには中川宮の名は出てこないが、「聖上」つまり天皇を長州に連れ去る計画が明記されている。また永倉の別記録「浪士文久報国記事」には、
「風並みよければ焼き打ち致すの了簡、天朝を奪い山口城へ落とすの謀反」
と記されていて、天皇強奪計画が確かにあったことを、当事者の永倉ははっきりと記録しているのだ。
これに対して、反対説を唱える論者が根拠としているのが次の史料である。
「六月四日、因幡山部隼太まかりこし申し聞かせ候には、ただいま大高又次郎方へ参り候ところ、いよいよ近々尹宮(中川宮)を放火致し候手はず受け候えども、いまだ機会に至らざる由をもって、しばらく差し止め置き候」(「維新前後之雑記」)
これは、新選組に捕縛された志士・古高俊太郎が取り調べの際に語った自白記録である。ここには確かに、彼らの標的が中川宮ひとりであり、しかも直前で実行を思いとどまったことが記されている。
これに従えば、志士たちの計画は、新選組側がいうほど乱暴なものではなかったということになるだろう。
大事なのは客観的証言
しかし、首謀者である古高俊太郎の証言では、本当に事実であったかどうかはわからない。容疑者が自分の罪を軽めに自白するというのは、大いにありうることだからだ。
同時に、新選組の永倉新八にしても、敵をことさらに悪くいうことがないわけではない。対立する双方の証言は、そういうバイアスを排除して聞かなければならないのである。
その点で、次に掲げる「肥後藩国事史料」の記述は大いに貴重なものというべきだろう。
「来たる七日、祇園節会の動揺に乗じ、御所へ火をかけ、玉座お立ち退きなされあり候はば、鸞輿(らんよ)を強奪し、長州へ擁下たてまつり候つもりに御座候おもむき白状におよび――」
「玉座」というのは天皇の座る所のことで、「鸞輿」は天皇の乗り物のこと。ここに天皇を強奪し、長州に連れ去るという古高俊太郎の自白が、はっきりと記されているのだ。
ちなみに肥後藩には、脱藩して今回の陰謀に加わった者もあったが、藩全体としては幕府方に属している。すなわち陰謀の内容については客観的に見ることができ、証言できる立場にあったといっていい。
天皇の強奪計画は、やはり実際に存在した――。新選組の活躍によって陰謀は阻止され、京の町が火の海になるのを防いだのだから、その働きは通説のとおり最大級に評価されるべきものなのである。