【幕末こぼれ話】新選組の土方歳三は農民出身がコンプレックスで、元からの武士だと身分を偽っていた?
新選組副長の土方歳三が、武州多摩の農民の出身であることは、広く知られている話である。
しかし近年、京都の三井両替店が記録した史料のなかに、それを否定するような記載が発見された。そこにはなんと、「土方歳三殿は室賀美作守様の御用人の次男だそうだ」と記されているのだ。
新選組と室賀美作守との関係はこれまでに語られたことはなく、まして土方歳三との接点はまったく確認できない。これは一体どういうことなのだろうか。
室賀美作守とは何者か
室賀美作守は諱を正発といい、五千五百石の大身旗本だった。大番頭、駿府城代、御側役などを歴任したのち、文久三年(一八六三)六月に五十五歳で隠居している。
あとを継いだ長男の室賀正容は、但馬守、伊予守に任じられたが、短期間ながら美作守を称したこともあったので、あるいはこの正容が件の美作守なのかもしれない。大目付、御側御用取次などをつとめた。
また「御用人」「用人」というのは、武士の家の庶務を仕切る役目の者である。主人が信頼する有能な者のなかから選ばれ、身分はもちろん武士だった。
したがって土方歳三は、室賀正発もしくは正容の、用人をつとめる武士(姓名不詳)の次男ということになるが、何度もいうように土方は多摩の農家の出身だ。父親は農民の土方義諄であり、室賀家の用人ではありえない。
それにもかかわらず、三井両替店の「新選組金談一件」には、
「副長 土方歳三殿 室賀美作守様御用人之次男之由」
とはっきり書かれている。こうした土方の身分の情報を、三井両替店に伝えたのは誰であったのか。
土方歳三のコンプレックス
それについて、「新選組金談一件」を見ていくと、三井両替店が新選組の屯所である西本願寺の寺侍・西村兼文と懇意であることが確認できる。西村はのちに「壬生浪士始末記」を著したほど新選組の事情に通じていた人物であったから、三井両替店が記した新選組の情報は、この西村から得たものであったことは間違いない。
すなわち、土方が室賀家の用人の子であったという出自は、西村が語ったものということになる。なぜ西村がそんなことを言ったかといえば、実は「壬生浪士始末記」には意外なことに土方の出自についての記述がなく、土方が農民出身であることを西村は知らなかったとも考えられるのだ。
土方には、「いい男ですから、一万石や二万石の小大名とよりは見えませんでした」という隊士池田七三郎の談話(『新選組物語』所収)も残されており、知らない者からすれば農民の出にはまったく見えなかったとしても不思議ではなかった。
そうした状況をいいことに、新選組で成功して以降の土方は、自分の出自を隠していた可能性が高い。その際に使う偽の身分として室賀美作守云々を称したのは、室賀家の者とどこかで接点があり、仮の身分として使えると判断できる何かがあったのだろう。
なぜ出自を隠したのか――。それは、やはりどこまで行っても農民出身と言われるのが嫌だったからとしか思えない。周囲の者や後世の我々からすれば、それほど気にすることではないと思えるが、本人にとってはそうではなかったのだろう。
土方歳三は、愛刀の和泉守兼定をふるいながら、農民という出自のコンプレックスとも戦っていたのである。