イジメとイジリの心理学(May J.さん、たむけんさんのイジリに感謝)
■May J.ツイッターで“イジリ”に感謝「名前出して頂けるだけで幸せ」
お笑い芸人のたむらけんじさんが、歌手のMay J.さんに批判的なことを言ったということで、双方のファンの間でもいろいろな意見が出ていたようです。お二人の態度(ツイッター上のやり取り:幸せな事→寛大な対応感謝です。)は、それぞれ大人の態度でしょうか。すてきな交流ですね。そして、決して嘘ではないでしょう。
この記事に、下記のようなオーサーコメントを書きました。
(たむけんさんの「リスペクト」、May J.さんの「幸せ」が嘘ではない前提ですが。)
子どもたちが「いじめ」について指導を受けるときに、「いじめじゃありません。イジリです!」と言い訳する子がいます。芸人さんがしているように、笑いを取っているだけだと。
私は、生徒のみなさんにお話しします。芸人さんの「イジリ」は、愛情表現だと。イジられている芸能人は、話題になりテレビに映り喜んでいると。「相手はいやがっていない」では不十分。それは、いじめにもなる。相手が喜んでくれるのが、本当のイジリだと。
何かと話題のMay J.さん。「ありのままの姿」で活躍して欲しいと、私も応援しています。
(碓井真史2014/12/13 )
■イジメとは、イジリとは:イジメとイジリの違い
「イジリ」という名前のイジメがたくさんあります。多くの場合、いじめる方は、相手の深刻な心の傷を理解していません。イジメや性犯罪被害は、仮に客観的には小さなことであっても、被害者の心の傷は、深く長く残ります。
いじめる側は、ちょっとした悪ふざけのつもりでしょう。そして、イジメではないイジリだと、先生にも自分自身にも言い訳をしています。「相手はいやがっていない」というのも、よくある言い訳です。
「お前、いやじゃないよなあ」と言われれば、力なく「うん」とうなづくでしょう。俺たちは、友達だ、ふざけているだけなどと言います。相手も不定しません。いえ、否定できません。いじめられ続けると、いじめを拒否できなくなることがあるのです。
しだいにいじめが見えにくくなり、被害者もいじめを甘んじて受け入れるようになってしまいます。一見、仲間のように見えますが、被害者は苦しみ続けます。
イジリとイジメ。似ているようで、どこが違うのでしょう。
いろいろな意見がありますね。「イジリ」なら良いと簡単に言ってしまうと、イジメを増長しかねません。でも、学校から「ふざけ」や「冗談」をなくししまうのが良いかと言えば、それも違うと思います。
イジリとは、辞書的には、「他人をもてあそんだり、困らせたりすること」です(大辞泉)。良い意味ではありませんね。だから、芸人が行う「客イジリ」は、かなりの高等テックニックです。
許される「イジリ」の範囲は、広くはないでしょう。たとえば相手がいやがっていないという愛称や、あだ名はでは、いじめになりかねません。本名で呼ばれるよりも、その愛称やあだ名でよばれる方がうれしいと感じる、それならOKでしょう。
イジリる側は愛情表現であり、イジられる側はうれしいと感じる、周囲も温かな心になる。これが本当の「イジリ」でしょう。
私は、実際にテレビ局で出会った芸人さんの話を子どもたちにします。お笑い芸人、特に毒舌芸人さんは、実はとても礼儀正しいと。
■いじめを防ぎ、被害者を守るために
2013年、いじめ防止対策推進法が制定されています。
いじめは、いじめたい心をもった子が、いじめを許される「イジメ許容空間」に置かれたときに発生します(いじめを減らす方法:「いじめ許容空間」を作らせるな!:いじめ防止法成立を受けて:YAhooニュース個人:碓井真史)。
いじめを許す安易な言い訳を作らせてはいけません。
国も、地域も、各家庭も、互いに協力してイジメを防ぐ責任があるとされています。訳の分からないまま、いじめている子もいます。どうしようもないと感じながら、いじめられ続けている子もいます。途方に暮れている親もいます。
いじめっ子の親の責任があり、いじめられている子の両親がなすべきことがあり、担任や校長や学校がなすべき責任があります。そして、その家庭や学校を支えるのが、私たちの役割りではないでしょうか。