織田信長の死後、足利将軍家がたどった滅亡への道のり
大河ドラマ「どうする家康」では、足利義昭のバカ殿ぶりが際立っている。ところで、天正10年(1582)6月で織田信長が横死したあと、足利将軍家はどうなったのか考えてみたい。
天文6年(1537)11月、足利義昭は義晴の次男として誕生した。少年期に出家すると、興福寺(奈良市)に入った。義昭は次男だったので、後継者になる可能性が低かったからである。
永禄8年(1565)、兄の義輝が謀殺されると興福寺を脱出し、室町幕府を再興すべく各地を放浪した。3年後に織田信長に推戴されて入京すると、征夷大将軍に就任し、悲願の室町幕府再興を実現したのである。
しかし元亀4年(1573)、信長との関係が決裂し、義昭は京都から追放された。天正4年(1576)に毛利氏を頼り、備後鞆(広島県福山市)に移った。ここから義昭は信長包囲網を形成し、反撃したが、打倒信長の道のりは遠かった。
天正10年(1582)6月、信長は本能寺の変で明智光秀に討たれた。義昭にとっては大きなチャンスだったが、光秀が羽柴(豊臣)秀吉に討たれると、義昭が復活することはなかった。
晩年の義昭は室町幕府の再興を諦め、出家して昌山道休と名乗り、豊臣秀吉から1万石の知行を与えられた。慶長2年(1597)8月、義昭は大坂で亡くなったのである。
義昭には、子の義尋がいた。元亀3年(1572)、義尋は誕生した。翌年、義昭が信長と戦って敗れると、義尋は信長のもとに人質として差し出された。信長は義尋を新将軍に擁立しようとしたと言われているが、それは実現しなかった。
その後、義尋は人質から解放されると、父と同じく奈良の興福寺に入り、大乗院門跡となった。のちに興福寺の大僧正まで昇進するが、還俗して足利高山と名乗ったと言われている。
義尋は、実相院義尊、円満院常尊という2人の子をもうけた。義尋が亡くなったのは、慶長10年(1605)10月のことである。義尋に関する史料は乏しく、その生涯には不明な点が多い。
なお、実相院義尊と円満院常尊は僧侶ということもあって、生涯独身を通した。結局、2人はともに子がなかったので、足利将軍家は断絶したのである。